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ぼーっとするのも悪くない。

今読んでいる本『坊さん、ぼーっとする。』
読んでいると、このお坊さん全然ぼーっとしている感じはしませんが(笑)

本の中で、こんなことをおっしゃっています。
❝日々の中で、「小さなこと」であっても「大きなこと」であってもじっくり考えることは大切な時間です。考えているようで、考える「時間」が足らないことが、僕たちにはあります。
そこに、「ぼーっとした待つ時間」も加えてみましょう。「考えること」も「ぼーっと待つ時間」も、僕たちには両方足らないことような気がします。❞

それに触発されてというわけではなく普段からぼーっとしがちな私は、
今日も帰りの運転中にぼーっとしていて(運転に対してはちゃんと意識向けていますよ!)、
そしたらふと思いついたことがありました。
もっと言うと、どこかから声が聞こえてきたような感じ、小説家などが口にする「降りてきた」というような感覚でした。
2つのことを思いついたのですが、
どちらも今の自分にとってすごく大切なことで、
でもそれは、考えようと意図し根詰めて考えていてもきっと思いつかなかっただろうなという気がしています。

なので、今日のタイトルに至りました。

そして、今日読んだ続きにはこんなことが書かれていました。
❝仏教に説く「平等」は、才能を画一化してしまうようなことではなく、それぞれのかけがえのない持ち味を見つけ出し、それを徹底的にいかして発揮させることだ。❞

私が理解したところは、
「平等」と聞くと、みんなが「同一」であるべきと思いがち(同一でない時には、他者を批判、否定しがち)ですが、
同じ能力、才能を持つ(能力それ自体、能力の種類の)ことではなく、
誰にでも得意なこと(逆に苦手なこと)や好きなこと(逆に嫌いなこと)があって、みんな互いに凸凹している。
でも、その〝得意・苦手がある〟ということや、
ある場面ではその得意なことで活躍し、ある場面では自分が苦手なことをほかの誰かの能力によって助けてもらう〟
という点は誰にもあって、
一人一人の価値はそういう意味で「平等」

ということです。

お互い様。互いに価値であり、また相手がいることによって自分の価値が見いだされる。

ストンと自分の中に落ちたこの考え・感覚を忘れずに、
時に忘れてしまっても、また思い出せる自分でいたいと思います。

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