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「置かれた場所で咲きなさい」→「咲ける場所に逃げていい」へ

ある日、NHKの朝の番組を見ていたら、直木賞作家の桜木紫乃さんがゲスト出演されていました。

その番組の中で桜木さんが、

「置かれた場所で咲きなさい」とよく言うけれど、
私は「咲ける場所に逃げて良い」と思います。

とおっしゃっていました。

僕はこの言葉に感動しました。
まさにその通りだなあ、と。

レイヤーという言葉があります。
階層という訳が充てられることが多いようで、エンジニアの世界などで使われるネットワーク用語だそうです。
レール、という言葉と言い換えても良いかもしれません。
世界には、社会には、見えていないだけで、色んなレールがある。
生き方、そして桜木さん風に言えば「咲き方」と言い換えても良いかもしれません。
あなたが一番しっくりくる言葉に置き換えて読み進めてください。

とにかく世界には色んな選択肢があるのです。

僕は、大学を6年かけて卒業し、その間に休学して色んなところを旅し(留年もしましたが)、色んな人に出会いました。
卒業後も、色んな土地で農業をして農家さんや地元の人と関わったり、同じように住み込みで他所から来ている人たちと出会いました。

その中には「メイン」と思われているレイヤーにいない人たちがたくさんいました。
それでもその人たちはとても楽しく幸せそうに生きていました。

色んな仕事、色んな働き方、色んな暮らし方、社会への関わり方をしている方達と出会ってきました。

この世界は、幾重にも重なるレイヤーで構成されています。
自分の生きているレイヤーのみが世界だと考えていると、とても息苦しく閉塞感を感じることも多いのではないでしょうか。

幼い頃は自分の家、両親や家族だけが「世界」だと思うことでしょう。
それが幼稚園や保育園という場所で「世界」がまた広がり、
小学校、中学、高校と上がっていくにつれて「世界」は広がっていくでしょう。
その過程で、親と先生だけが大人だと思っていた時期から、
他にもいろんな人がいる事を知り、
自分の育った地元以外の人たちが集まる大学で、
更に多様な価値観に触れて、そこでの4年間(僕のように6年の人もいるかもしれませんが)を経て、社会へ出ていく。

ここでいう世界の広がりも、もしかしたらただ一つだけのレイヤーを縦に長く上がっていっただけかもしれない。

一つのレイヤーを縦断的に生きるだけでは、「世界」を知ったことにはならないでしょう。

いくつものレイヤーを横断的に生きてみて、知ってみて、自分の好きなところで、肌に合うところで、「咲ける場所で」生きることができれば、
人はもっと幸せになるのではないでしょうか。

そのためには、もっと社会全体の空気感として「メイン」と思われているレイヤー、
それが「メイン」だという認識を変えていくこと。
色んなレイヤーがあっていいが、そこには上下、高低は無い、ということ。
そんな共通認識を社会通念とすることが必須では無いでしょうか。

そのためにはまず「メイン」と思われているレイヤーから漏れ出たり、飛び出したりした人を「ハズレもの」「変わり者」「脱落者」という目で見ない、レッテルを貼らない、ということが肝要になってきます。

僕が出会った人たちの中には、
自分から喜んでメインから飛び出して好きなように生きている人」から、「メインに適応できなかったのでやむなく外のレイヤーに来ました
という人と、様々いました。

ですが、入口は後者だったけれど、入ったレイヤーで生きていくうちに
楽しくなってきて前者になった、という人がほとんどでは無いでしょうか。

先ほど述べた「メイン」にいる人たち全体で醸成される共通理解、同調圧力のようなものに苦しまなかった人はごく僅かではないか、と思います。

桜木さんのような素敵な考え方を持った人に偶然出会えて、背中を押されて一歩踏み出して、「咲ける場所で咲ける人」はごくわずかであろうし、
偶然に左右される要素が大きいと思うのです。
たまたま支援の手や自分を変える出来事に出会えた人、たまたま家庭環境に恵まれていた人たちが救われる。

社会として、世界として、それはいかがなものか。

ここで「自己責任論」を唱えてくる人もいるでしょう。
「弱肉強食」だ、と。「競争社会」だからしょうがない。

本当にそうでしょうか。

本当にその人だけの責任でしょうか。

その人の努力だけでどうにかなる部分って、世の中にどれだけあるのでしょうか。

究極な地点まで遡って考えれば、「子どもは親を選べない」。
じゃあ更に遡って、これから親になる子どもたちを変えていくしかない。

そして、それ以外の生き方を自分で選択できる社会が、理想の社会では無いでしょうか。

自分で選んでいるように本人は感じているが、実は無意識に一つの選択肢に誘導されている、なんてこともザラにあるはずです。

貧困の連鎖や子どもが不幸になる結婚、それらを少しずつ減らしていき、負の連鎖を止めていく。

教員の関わり方、法整備や地域での支援、企業としての関わり方、それらを変えていくには、その前段階を変えていかなければならない。

スポーツで例えるならば、チームを強くするには良い指導者が必要。
そのためには指導者を育てる指導者、または環境が求められます。

それと一緒で、負の連鎖を止めるには先回りして「未来」を作り続けないといけない。

これができるのが「教育」だと思うのです。

なんでも教育に結びつけてしまう、と言われればそこまでですが、本当にそう思うのです。


この記事の結としては、
①「咲ける場所に逃げていい」の考え方に誰もが出会って変われるわけではない
②その偶然性を変えていく必要がある
③負の連鎖を止めるために、先回りして「未来」を作る
④その結果色んな人の色んな「咲ける場所」が「公認」される
「メイン」のレイヤーという考えがなくなる
生きづらい人は減っていく???

ということになるでしょうか。

僕の生きづらさへの挑戦はまだまだ続きますので、これは仮説の域を出ません。

しかし、この考えを基に僕は現在教育業界に身を置いています。

結果的に生きづらさを無くす手段としての教育、という考え方が破綻しても、
僕は諦めません。

次回はこれに引き続き、
「生きづらさ研究日記001」と題して投稿した過去の記事にも書いた通り、
現在進めている「生きづらさ」とタイトルにつく本を読む、ということについて、現在の進捗状況を紹介していきたいと思います。

今回もご拝読ありがとうございました。

それではまた。

小野トロ

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