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自分を、生きる。

相手が不機嫌だとしても、それは私のせいではない。

相手がイライラしていたとしても、それを私が鎮める必要はない。

相手が悲しんでいたとしても、私まで悲しむ必要はない。

相手が悩んでいたとしても、私が解決しなきゃと責任を負わなくてもいい。

相手の痛みを、想像して寄り添うことはできたとしても、
同じ痛みを感じられないことに、申し訳なさを感じなくていい。

相手がつらい状況にあったとしても、私が罪悪感を持たなくていい。

相手が嬉しそうだとしても、私にとって嫌なことだとしたら、
嫌だと思っていい。嫌だと伝えてもいい。

相手が楽しそうだとしても、私も同じテンションにならなくてもいい。
でも、なりたかったら、なってもいい。

相手が私を好きだとしても、好きじゃないと思ってもいい。

相手が私を嫌いだとしたら、無理に好かれる必要はない。

相手が私を必要だと思っても、私がそばにいなくてもいい。
人には生きる力が備わっているから。相手はそんなに弱くない。

私も、そんなに弱くない。

強くもないけど、弱くもない。

今言ってきたことは全部、相手と私、を置き換えることも出来る。

私が望んだとしても、相手をコントロールすることはできない。

私が欲したとしても、相手がそれをしてくれるとは限らない。

相手は相手。私は私。

それぞれが、自分を生きる。

その中で、相手とどう接したいのか、自分で決める。

相手がどうしたいのか、を考える前にまず、

私はどうしたいのか、を考えてみる。

私の声を聴いて欲しいのは、誰でもない、私だ。


もし、声を聴くのに、ひとりだと難しいなって感じたら、

聴いてくれる誰かに助けを求める。

助けを求める、というのも違うのかな。

誰かの力を借りる。言葉や価値観を分けてもらう。

ひとりじゃない、受け止めてくれるんだという安心感とともに、

無防備になって、自分をさらけ出して、私の声を聴く。

そのために、手伝ってもらう。それも時には必要だと思う。


そうやって、私が私の声を聴けるようになってくると、

相手の声も少しずつ、離れて聴けるようになってくる。

「あぁ、今、そうやって感じているんだね。」

少し離れて聴くと、表情や言葉の裏側に込められた不安や怖さが見えてくる。

私を攻撃したかった訳じゃないんだ。

私を責めたかった訳じゃないんだ。

ただ、相手の感情が動いているんだ、と眺めることができる。


でも、あくまでもそれは、私から見た視点でしかない。

相手の感情は、相手にしか分からない。

だから、どんな感情なのか知りたければ、話をしてみる。

言葉で、聴いてみる。確認をする。

気持ちを、共有する。

だけど、相手がまだ、自分で自分の感情をうまく言葉に出来ない時は、
無理をしないこと。焦らないこと。

誰だって、やってきていないことは、いきなり出来るわけがない。

やってきていたとしても、自己流だとしたら、それしかやり方を知らない。

少しずつ、少しずつ、積み重ねていく。

その過程の中で、気付けることはたくさんあるから。

無駄なことはひとつもない。


ただ、その過程がつらくなったり、疲れてしまうのなら、

一旦やめてもいい。少し休憩を取ってもいい。

もうこんなことしたくないな、って思うなら、

もうやらなくてもいい。自分が疲れない場所を、見つけてもいい。


自分を生きる、というのは、

自分が何を選んでもいい、という状態のことなのかな。

それが、自由ということなのかな。


まだまだ私は、相手に振り回されやすい。

相手に対して、求めてしまうこともたくさんある。

それでも、ずっと抜けられなかったトンネルから、出られた!!!
という解放感がある。

暗くて、どこまで続いてるのか分からなかったから、
ずっと不安だったんだ。

でも、もう外の景色が見えるようになった。

とは言え、外は外で、ずっと晴れてて心地がよいわけではない。

曇る時もあれば、雨の日だってある。雷が落ちたり、台風が来たり、

ハリケーンに巻き込まれる可能性だってある。

そう考えると、トンネルの中の方が安心で安全だったのかもしれない。


だけど、私はもう、自分を生きると決めたんだ。

ちょっと怖いけど、いや、だいぶ怖いけど。笑

ようやく冒険に出る覚悟ができた。

(もう呪文はいっぱい練習したからね!!!あとは実践あるのみだ!!)

これから始まるRPGみたいな人生を、たくさん記録として残していきたい。

心をどんどん綴っていきたい。

いつか、この文章を懐かしいなぁと思いながら、また読みたいと思う。

2022.5.6 もちゃ

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