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会津只見の古代ネットワーク②


■弘法大師の伝説

小林区の隣、「梁取(やなどり)」区の地名の由来を聞いた。
弘法大師が、虚空蔵(こくうぞう)様を祀る場所を柳津(やないづ)にするか梁取にするか迷われ、8回も行ったり来たりしたことから「八(や)もどり」と呼ばれ、それがいつしか訛(なま)って「やなどり」になったという。

梁取の「成法寺(じょうほうじ)観音堂(国重要文化財)」は、お蔵入(おくらいり)三十三観音の第一番札所で、鎌倉時代の聖(しょう)観音(かんのん)は伊達政宗の乱入にも耐え美しい姿をとどめる。

その観音堂の背後にそびえる奇石「籠岩(かごいわ)」にあるのが「虚空蔵堂」だ。
地元の方の話では、観音堂からは急な山道で片道30分はかかり、足がパンパンになるほどきつかったという。

奇岩がせり出した空間に、大人の背丈ほどの虚空蔵堂がある。
一帯は霊場にふさわしい景観で、まさに修験者の姿が目に浮かぶようだ。
柳津虚空蔵尊も巨大な岩山に祀られているが、このような伝説がある。
唐より帰国した弘法大師が、霊地を探るために霊木を海に投げると安房国(あわこく)天野浦についた。

これを3つに分断し海に投げると、その一本は越後国から阿賀野川、只見川を上って柳津についた。
弘法大師はこの霊木を求めて只見川を上り、長江庄沖邑(今の只見町)まで行ったが見つからず柳津まで戻ると、それを拾い祀っていた漁師に出合う。そしてこの霊木で虚空蔵菩薩を刻まれた、という。

この柳津と只見の行き来を、梁取の人々は「八(や)もどり」と誇張したのかもしれないが、奥会津の古くからの信仰には、只見川・伊南川などを通じて多くの交流があったことを伝えているのかもしれない。

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        (籠岩の「虚空蔵堂」 梁取地区)


■能登半島からの神様

先ほど述べた「大田木地師集落跡」の東、昭和村には「気多(けた)神社」がある。
この神社は、能登半島(石川県羽咋市)の気多神社から勧請(かんじょう)されたと伝わる。

さて、能登半島から昭和村の気多神社への道のりだが、越後平野から六十里(ろくじゅうり)越(ごえ)か八十里(はちじゅうり)越(ごえ)で只見川に入り、伊南川~布沢川~野尻川のルートが浮かぶ。
あるいは、会津坂下町にも「気多宮(けたみや)」があることを思えば、阿賀川~只見川~野尻川かもしれない。

気多信仰が広がりは、能登の石動山(いするぎさん)修験道と密接な関係がある。
北陸の修験道は白山と石動山が双璧で、ともに泰澄(たいちょう)が開祖だ。石動山の里の拠点が羽咋(はくい)の気多神社で、気多神宮寺を形成していた。

秋の収穫期を終えると、石動山の行者たちは数名の集団に別れ北陸各地を巡った。
お布施を徴収する代わりに、加持祈祷と石動山・気多神社のお札を渡したのだという。

昭和村の気多神宮では、130年ぶりに「渡御祭(とぎょさい)」が復活した。
先導するのは天狗面をかぶった行者(ぎょうじゃ)だが、天狗と行者(山伏)は一体だ。

修験道の行者が山奥へ分け入ったのは、良質の生薬や鉱物資源などを求めるためでもある。自然の恵みにあふれる奥会津へ布教範囲を拡大し、活動拠点を開いたと考えることもできる。

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           (昭和村の「渡御祭))
    出所:https://web.sharebase.jp/project/togyosai2019/

          
■泰澄から徳一の時代へ

「725年、行基(ぎょうき)が白山に登り、泰澄と出会う。一介の田舎和尚にすぎなかった泰澄に、行基は教えを請い、友人のごとく語り合った。そして行基は泰澄から神仏習合の思想と木彫物制作の方法を学んだのではないか」(梅原猛『歓喜する円空』)という。

修験道の開祖役行者(えんのぎょうじゃ)と行基は師弟関係だった(前田良一氏『役行者』)。
役行者とほぼ同じ時代に、法相宗を伝えた道昭(どうしょう)(629-700)がいて、その弟子が行基(ぎょうき)(668-749)である。

行基は、山林修行を経て、貧民救済・治水・架橋などの社会事業を行い、民衆からは「行基菩薩」と慕われた。
そして後年、同じように菩薩と慕われたのが、会津仏教文化の開祖徳一(とくいつ)(748?-824)だ。

安田喜憲(よしのり)氏は「徳一は、白山信仰の開祖泰澄と同じく、東北の地に観音信仰と水への信仰を持ち込んだ。泰澄との教えにもっとも近いのが徳一ではないか」(『山は市場原理主義と闘っている』)という。

大陸からもたらされた仏教は、各地の山岳信仰や原始神道などと融合しながら伝播した。
古代のネットワークは、私たちの想像をはるかに超える。
行者や僧侶は、互いに影響しながら、驚くほど広範囲に活動したのだ。

会津只見考古館の近くでは、さらに遺物を展示するための建物が建設中だった。

只見には、全国的に珍しいにもかかわらずほとんど知られない歴史が多いから、完成後には大いに宣伝して地域の活性化につなげるべきだ。
歴史ファンだけでなく、山深い豪雪地帯というイメージしか持たない人たちへも、効果的なアピールになるはずだ。

窪田遺跡での特別展示『洗骨の里、只見』
梁取の虚空蔵堂参拝後、船で柳津へ行く『弘法大師、迷いの八(や)もどりルート』という企画はいかがだろう。

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           (会津只見考古館)出所:http://www.okuaizu.net/spot/864/

(終わり)


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