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『会津の八百比丘尼(やおびくに)伝承~金川寺(きんせんじ)』①


八百比丘尼は、娘の姿のまま老いることなく八百歳まで生存したという伝説の女性だ

その長寿の原因は、人魚の肉などを食べてしまったこととされる。
各地の伝承には違いもあるが、やがて諸国巡歴の旅に出た後に、空印寺(くういんじ、福井県小浜市)で入定すると伝えることが多い。
会津にもこの伝承があると知り、2019年2月に喜多方市塩川町の金川寺に参拝した。
このお寺には、なんと八百比丘尼の御像とお堂まで残るのである。

金川寺の八百比丘尼伝承 
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 文武天皇に仕えた秦勝道(はたのかつどう)は、秦河勝(はたのかわかつ)より三代の孫に当たる。腹黒い家臣の告げ口により都を追われ、和銅元年(709)に磐梯山麓に流されたが、やがて村長の娘を娶り一女が生まれ、千代姫と名付けた。

庚申溝の夜、勝道と仲間たちは白髪の老翁に竜宮城へ招待され、山海珍味や美酒に酔いしれた。やがて、珍しい「九穴の貝」(くけつのかい)が出されたが、勝道は気味が悪く食べずに持ち帰った。帰宅するなり千代姫は、父の衣装の袖に隠してあったその貝を食べてしまった。

驚いた父は、どうか無事でありますようにと庚申の神に祈り続けた。願いが通じたのか、千代姫は美しい才女に成長した。姫が12歳の時に父は他界し、やがて母も亡くなった。

姫は、人は必ず死ぬという悲しさを悟り仏の救いを求め、数多い縁談話も聞こうとせず、全国遍歴の旅に出た。

時は過ぎ、後嵯峨天皇の時代に疱瘡が流行した。
千代姫は天皇の命でお祈りをして民衆を苦しみから救い、妙連比丘尼の名と紫の衣を賜った。寛元四年(1246)のことだ。

それから30年ほどして比丘尼は磐梯山麓の里に戻り、松峰山金川寺を建て、阿弥陀如来と聖徳太子の御像と自らの姿を彫り残した。
村の衆には、日々私の名を唱えれば長生きし、生まれてくる時も苦もなく安らかに生きられると仰せられた。
(金川寺「八百比丘尼略由来」より筆者要約。)
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千代姫が食べてしまった「九穴の貝」はアワビ

千代姫が生まれたのは715年頃と仮定すると「後嵯峨天皇から妙連比丘尼の名と紫の衣を賜った」のは1246年だから、この時すでに531歳。
磐梯山麓に戻り金川寺を創建した時期は561歳となり、恐ろしいほどの長寿だ。

空印寺の伝承では、小浜生まれの八百比丘尼は、全国行脚の後に空印寺に戻ったとされ、寺には入定したとされる洞窟も残る。
会津の八百比丘尼は、今の磐梯町にあった更科の荘で生まれ、全国行脚の途中に金川寺を創建し、その後若狭へ移り空印寺で入定したとされる。

千代姫がうっかり食べてしまった「九穴の貝」はアワビだ。
海がない会津で、竜宮城やアワビが出てくるのもおもしろいが、なにより、聖徳太子の側近として仕えた秦河勝が登場することに驚く。
河勝は渡来系氏族である秦氏の族長のような人物で、祖先は秦の始皇帝だともいわれるのだ。


相模国「常世の虫」事件と、会津の地名「常世」

大化の改新の1年前(644)、相模国の富士川近辺で不思議な事件が起きた。
その頃、大生部多(おおうべのおう)が、村人に虫を祀ることを勧め「常世神を祀れば、貧者は富を得、老人は若返る」と触れ回った。
人々は「常世虫(とこよのむし)」(アゲハチョウや蛾の幼虫だとされる)を祀り、歌い踊り財産を棄捨して福を求めたが、何の御利益もなく甚大な損害を残した。
ついに河勝は大生部多を討伐し平和な世に戻ったという。

日本書記に記されるほどの大事件だ。
さてこの「常世」だが、金川寺のある塩川町にはその地名が今も残る。
常世神を信仰する一派が、命からがら会津に入ったのではないかなどと妄想するのは筆者の悪い癖だが、この事件の立役者(河勝)の孫が会津に流され、八百比丘尼の父親になるとは不思議な話ではないか。

金川寺の八百比丘尼堂は、瓦屋根で回廊のある立派なお堂だ。
その向拝柱には、向かい合うようにして竜と海女の彫刻が残る。
海女さんといえばアワビ漁を連想するが、お堂の正面にその姿が彫られているのは、八百比丘尼が食べたアワビと何か関わりがあるのだろうか。

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伊勢の海女さんのお守り「セーマン・ドーマン」

筆者はこの時、伊勢参りの際に参拝した鳥羽の「神明神社」を思い起こした。
末社の「石神社」(石神さん)は、地元の海女さん達が古くから安全大漁を祈願する場所で、ここには海女さん手作りのお守りがある。

表には石神の文字、裏には星型と格子状の不思議な図柄の刺繍が施されているが、この印は「セーマン・ドーマン」と言われ、三重県志摩地方の海女が代々身につける魔除けなのだ。

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陰陽道とも関係があるとされ、セーマンは安倍晴明(あべのせいめい)、ドーマンは蘆屋道満(あしやどうまん)の名に由来するともいわれる。

このドーマンが小浜の八百比丘尼の父親だとする説がある。

江戸時代中期の旅行家、百井塘雨の『笈埃随筆』には「比丘尼の父は秦道満といひし人のよし縁起に見へたり。初は千代姫と云し」とある。
この秦道満は蘆屋道満の本名だとする説があり、それに従えば、空印寺の八百比丘尼の父はドーマンとなる。(現在の寺の伝承では、父親は高橋長者権太夫とするが。)
つまり、小浜と会津の八百比丘尼の父親はともに秦氏ということになり、娘の名前(千代姫)も同じだからこれまた興味深い。
(勝道とドーマンは生きた時代が違うが、細かな時代検証は行わない。)
(続く)

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