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日本海を渡り会津に移り住んだ人々③


丸木舟からゴンドラ型の準構造船へ

古代の交易を支えるのは船だ。
縄文時代の船は、石器を使用して製造した単材の丸木舟や筏(いかだ)だった。
弥生時代も、初めは丸木舟が主流だったが、やがて製造に鉄器を使用した、準構造船(ゴンドラ型など)も造られるようになった。

古墳時代の大型の丸木舟には、クスノキの使用例が目立つという。
先述のタブノキは、クスノキの一種でイヌグスともいう。
耐陰性、耐潮性、耐風性に優れ、海岸近くの防風・防潮樹に適しているが、霊が宿る木とされ、古代では信仰の対象となった。

翡翠の集積地だった邑知潟の造船所では、このタブノキを材料とした船も造られ、貴重な船材への感謝と安全な航海への祈りが、多くの神事につながったはずだ。

さて、私の旅は、能登半島から、富山の気多神社(高岡市)、そして新潟へ入り、糸魚川市の天津神社・奴奈川神社、上越市の居田(こた)神社を参拝した。
両社ともに、大己貴命と翡翠の姫、奴奈川媛を祀る。
当日は、あいにくの天気で、日本海もせり出す山々も霧の中だった。
遠い昔、悪天候に難儀しながらしばし船を休める海民の姿が浮かぶようだった。

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                           (天津神社・奴奈川神社  新潟県糸魚川市)

阿賀野川から会津へ

『魏志倭人伝』の時代、日本海側の最大の港は出雲だった。

3世紀までの出雲は、大社から現在の宍道湖・中海まで海でつながる港湾都市(翡翠の道、鉄の道の中心)として、東西の船が持ち寄る多くの品々が交換されていた。

出雲から東へ進んだ人々は、若狭湾を経由し、能登半島の邑知潟を富山湾へ抜け、翡翠の産地糸魚川へ進む。
その先、右に望む国上山・弥彦山・角田山の山並みを過ぎれば、無数の沼・潟が点在する湿地帯、越後平野だ。

そのまま日本海を北へ進む民もいれば、ここから内陸へ入る民もいた。

信濃川を上ると長野方面へ、阿賀野川を進むと会津盆地・猪苗代湖へと続く。
会津坂下町に気多の神を勧請した人々の祖先は、遠く出雲・能登の地から阿賀野川に沿って進み、会津盆地の西に到達したのだ。

旅の最終日は、新潟の新発田から県道14号線、49号線を走り、津川、野沢を通り会津へ入った。
旧会津街道を車で通ることはできないが、ときおり阿賀野川を眺めながらの風景は、古人のたどった道を想いうかべるには充分だった。

会津盆地の北、喜多方市の寺南には出雲神社が鎮座する。
さらに、当社を起点として、北から西へ弧を描くように、出雲神社が9社も分布するのだ。それはまるで、出雲神社の集団が、坂下町の気多神社をぐるりと見下ろしているようで面白い。

さて、猪苗代湖を源流とする日橋川から阿賀川の流域には、出雲をルーツとする文化の伝播を思わせる遺跡が点在する。

塩川町の館ノ内、荒屋敷遺跡には、北陸の四隅突出型墳丘墓との共通性があり、弥生時代後期の北陸系土器も出土した。
坂下町の中西遺跡は、北陸から来た人々の集落跡とみられるという。


ニライカナイと常世の地名

会津盆地を抜け、猪苗代湖の北岸、猪苗代町三ツ和の出雲神社に着いた。田園地帯に、ぽつんと残る鎮守の森が印象的だ。

社殿は猪苗代湖の方角に建てられ、後方には、雄大な磐梯山がくっきりと見える。風が強い日だったが、しばらくこの美しい風景を眺めた。
この付近には、出雲檀という地名も残り、出雲からの移住を物語る遺跡も多いという。

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                                     (出雲神社 猪苗代町)

ふと、猪苗代湖の西岸(会津若松市湊町)の「須佐之男(すさのお)神社」を思い起こした。
この神も、やはり猪苗代湖を見守るように鎮座するが、須佐之男は、天照大神の弟で、高天原から出雲に降りた神、そして大己貴命はその子孫である。

出雲信仰では、神々の世界は海の彼方にあり、神は海原を渡って訪れ、海の彼方へ去る。
猪苗代湖の北西には常世(とこよ)の名が残る。
常世とは、海の彼方や海中にある理想郷であり、大己貴命(大国主神)とともに国造りを行なった少彦名神(すくなびこなのみこと)は、海の彼方にある常世の国に帰ったともいわれる。
また、沖縄地方に伝わる「ニライカナイ」も、常世によく似た理想郷の伝承だ。

はるばる出雲から能登半島を越え、会津盆地を目指した人々のその先には、大海と見紛えるほど雄大な猪苗代湖が出迎えた。
遠く南方の魂をも受け継いだ人々は、この一帯を理想郷と崇め、終(つい)の棲家、安住の地としたのかもしれない。
(終わり)

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              (猪苗代湖)












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