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会津只見の古代ネットワーク①


■驚くほど雪のない冬

1月下旬に会津只見を訪れた。
浅草駅から東武特急に乗り会津田島駅で下車、さらにバスで国道289号線を新潟方面へ向かう。

この日の宿は伊南川(いながわ)沿いの長浜区。
只見駅へは15キロほどの場所だ。豪雪地帯とは思えない、地元の長老も驚くほど雪のない冬だった。

ちょうど小林区の「オンベ」が行われるということで、地元の方が辺りを案内してくれた。オンベは、大きな萱(かや)の束に火を放ち、その火で焼いた餅などを食べることで一年の無病息災を祈る。
河原では御神酒(おみき)や甘酒、子供にはお菓子がふるまわれ、心温まる風景だった。

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           (小林区の「オンベ」)


■縄文遺跡と再葬墓

伊南川の河岸段丘では、縄文時代中期(5500年前)から弥生時代中期(2000年前)にかけての集落が発見された。
県指定の「窪田(くぼた)遺跡」では、土偶・首飾り・耳栓・石錘(せきすい)(漁労に使うおもり)など多数の遺物が出土し、近くの「会津只見考古館」に展示されている。

なかでも大きな発見は弥生時代の「再葬墓(さいそうぼ)」だ。

再葬墓とは、土葬や風葬などした死者の骨を何年か後に掘り返し、洗(せん)骨(こつ)といって骨をきれいに洗った後に、瓶(かめ)に収め再度葬ることをいう。
ここでは、全国的にも珍しく大型で完全な形の瓶が多数見つかった。

再葬(洗骨)の起源は、東南アジアや、大陸、朝鮮半島にあるともいわれるが、日本では、近年まで沖縄や奄美群島にその風習があった。

最近話題の映画『洗骨』は、まさにそれがテーマだ。

「沖縄の粟国島(あぐにじま)では、島の西側に位置する「あの世」に風葬された死者は、肉がなくなり、骨だけになったころに、縁深き者たちの手により骨をきれいに洗ってもらい、ようやく「この世」と別れを告げることになる」とある。

窪田遺跡に近い「七十刈(しちじゅうがり)遺跡」からは籾(もみ)の付着した土器が見つかり、弥生時代の初めには稲作が行われていたことがわかる。

稲作技術を伝えた人々は、洗骨などの風習も一緒に持ち込んだのだろう。
遠く海を渡り、川や山道を経てこの地にたどり着いた人々を思うと、只見のイメージもだいぶ違ってくる。

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        (伊南川流域では縄文遺物が出土する)


■木地師(きじし)の歴史

伊南川の会津只見考古館のある辺りに、北から布沢(ふざわ)川(がわ)が合流するが、さらに上流の田沢川には「大田木地師集落跡」がある。
木地師とは、奥山に入り樹木を伐採し、ろくろを使って椀や盆などの木地をつくる職能集団のことだ。

この集落には、江戸時代中期から50~60年間、木地師の家族が住んでいた。人口のピークは、文政年間(1818~1831)の戸数9戸、人口63名で、やがて別の場所へ移ったという。

墓碑群の格式のある戒名を見ると経済的に豊かだったことがわかる。
彼らは近江系の由緒ある木地師だと称して、縁起書(えんぎしょ)・御綸旨(ごりんじ)(樹木の伐採権)を持ち、良材を求めて広範囲の山林を渡り歩く特権階級だった。

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          (大田木地師集落跡地見取図)

会津地方では、蒲生(がもう)氏が会津藩主となった天正18年(1590)に、伊勢松坂から木地師を連れてきたことで会津塗りの発展につながるが、やがて木地師の活動は会津全域に広がった。

木地師の起源はとても古い。
大陸では漢の時代にろくろ木地が作られており、奈良県の弥生式遺跡からはろくろを使った高坏(たかつき)が発見された。

宮本常一氏は「縄文時代から弥生式時代へかけての出土品の多くが土器である関係から、私たち祖先の日常生活は土器を利用してなされていたように思われるけれども、それは土器がくさらないためで、木器もまた多く使用されていたものと考えられる。」(『山に生きる人びと』)という。

只見町には1万7千年前から人々が暮らしていた。
これは只見川流域の旧石器時代の遺跡からわかるのだが、伊南川流域の窪田、七十刈遺跡などもあわせて考えれば、太古から、高い技術を持った人々の生活圏だったのだ。
(続く)


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