日本海を渡り会津に移り住んだ人々②
■能登半島は古代日本の航路目標
天平二十年(748)、越中守大伴家持(おおとものやかもち)が能登を巡行し当社に参詣して詠んだ歌は、いま注目の『万葉集』にも載る。
気多大社は、延喜の制(927年)で能登国一の宮とされ、半島一円の鎮護の重要拠点だった。
周辺には太古から人々が住み、弥生時代には、低湿地を利用したコメ作りが行われた。
5世紀には円墳や前方後円墳などが次々に築かれ、古墳時代の一大拠点となる。古代の日本海の交通にとってこの半島は大きな航路目標だった。
気多大社には、1万坪の天然記念物「入らずの森」という古来の聖地がある。
この森は亜熱帯性照樹林におおわれ、国の天然記念物に指定されている。
当地のタブノキは、民俗学者の折口信夫『古代研究』のグラビアに掲載され、対馬海流のもたらす南方文化の象徴として紹介された。
タブノキはまた、能登の各地で杜神の神体として尊ばれ、榊にかわって神事にも登場する。
(天然記念物「入らずの森」近くの散策道)
■邑知潟は、翡翠の集積地だった
気多大社の羽咋市(日本海側)から、北東へ約20キロ、能登半島を斜めに突き抜けるようにして行くと、富山湾側の七尾市には「気多本宮」がある。
この一帯は、邑知潟という潟湖(せきこ)だった。
弥生・古墳時代、南方の民が能登半島の西岸にたどり着き、新潟方面へ船を進める場合には、半島をぐるりと回るのではなく、この邑知潟の川を利用して七尾市側へ抜けたのだという。
(気多本宮 石川県七尾市)
邑知潟には、翡翠の原石の加工場や造船所と思われる遺跡群があることから、応神帝の時代には、翡翠の集積地だと考えられる。
日本海にはかなり早い時代から、那の津(博多)から新潟付近まで港を繋いでゆく「翡翠の道」と「鉄の道」ができていたという(長野正孝氏『古代史の謎は「海路」で解ける』)。
つまり、富山県の姫川で採れる貴重な翡翠は、遠く朝鮮半島まで運ぶ西行のルートで運ばれ、鉄は逆に、朝鮮半島から那の津・穴門(あなと)(関門海峡)・出雲を経て、丹後から東へ向かうルートで運ばれていたのだ。
■広範囲な交易ルート
縄文中期の遺跡、会津の法相(ほうしょう)尻(じり)遺跡(磐梯町・猪苗代町)で出土したヒスイ大珠(長さ8.4㎝、鰹節型)も、この交易ルートの新潟から阿賀野川を通り会津に渡ったのだろう。
もっとも、姫川の翡翠は、北海道南部や薩摩半島・沖縄の遺跡からも見つかるから、さらに広範囲な交易ルートができていたはずだ。
もちろん、運ばれるモノは、翡翠と鉄だけではない。
船で鉄製品などを調達した地域では、その対価として、現地の特産物を船積みしたはずだ(傭兵など人を送り込むこともあったかもしれない)。
■会津盆地には豪族が群立
4世紀の会津盆地には、大型の前方後円墳を築いた豪族が群立した。
この豪族たちの巨万の富は、阿賀野川や只見川などの大河を利用した、船での交易を抜きには語れないだろう。
古墳の造営には、大量の鉄器が必要になるから、朝鮮半島からの鉄鋌(てつてい)(鉄の板)、あるいは鉄器類を、会津に運び入れたとも考えられる。
その対価として、さらには商売として会津から船積みしたモノは何か。
私はそれを、豊富な鉱物資源ではないかと考えた。
一方、会津では、褐鉄鉱を原料とした古代製鉄が行われていたとも考えているが、この場合、主として鉄鋌を材料とする鉄器を使いながらも、釘などの簡易な鉄器には、褐鉄鉱を活用したと考えることも可能だと思う。
➡「猪苗代湖畔で「古代製鉄」を想う」
ところで、喜多方市の灰塚山古墳(5世紀の前方後円墳)から出土した人骨の歯や骨格から、全身像を復元したとのニュースがあった(河北新報、6月4日)。
男性は、死亡推定年齢50代後半、身長158センチで、きゃしゃな体形。比較的面長で、鼻の付け根が平らな渡来系の顔つき。歯のすり減り具合から、固い物は食べていなかった。
人骨内の炭素と窒素量からコメのほか、川魚を食べたとみられる。
会津地方は、能登半島などを経由してきた渡来系の集団が、大和朝廷の政治的な後ろ盾を得ながら支配していたとみられるという。
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