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【古代会津の「黄金と朱」】③


■不老長寿と常世

磐梯山の麓、塩川町に常世(とこよ)という地名がある。
8000年前の縄文土器が発見される地域だ。

常世とは、海の彼方にある理想郷で、長寿や不老不死がもたらされる異郷とされ、古神道では神域(禁足地)の意味もある。
朱の原料である辰砂からは水銀ができ、不老不死の薬になるのだから、この常世という地名には無性に想像を掻き立てられる。

紀元前3世紀、秦の始皇帝の命で不老不死の薬を探しに旅立ったのは、徐福(じょふく)だ。

3,000人の若い男女と多くの技術者を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したが、広い平野と湿地を得て王となり、秦には戻らなかったと伝えられる。

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到着した先は日本だとして、列島各地にその伝説がある。
徐福が会津の王になったなどと言うつもりはないが、会津の歴史には、鉱物資源を取り巻く歴史が数多く残されている気がする。

朱は、木材の防腐剤としても使われたから、海人族は朱の調達のために山に入ったとも考えられる。
阿賀川や只見川の川幅は更に広く、日本海も今以上に近かったはずだ。


海人族と山伏

さて、鉱物資源を探す海人族は、やがて山伏に変化していったともいわれる。
貴重な鉱物を発見すれば、それを独占するために関係者以外の入山を禁ずる必要があり、そのために結界を張り、神域として一般から拒絶された空間をつくった。

役行者(えんのぎょうじゃ)は、修験道の基礎を築いたとされる人物だ。
前田良一氏は『役行者』の中で、役行者と行基は師弟関係ではなかったかと考え、「役行者が金鉱脈を発見する。

後から来た行基が、鉱区を宗教施設で囲い込んで占有するという連携プレーである」と推測する。

法相宗の行基は、法興寺(飛鳥寺)、薬師寺に学び、やがて山林修行に入ると優れた呪力・神通力を身につけた。山を出ると民間布教を始め、貧民救済・治水・架橋などの社会事業を行い、民衆から絶大な支持を得た。

朝廷から弾圧された時期もあるが、聖武天皇の依頼で大仏建立に協力し、最高位「大僧正」の位を日本で最初に贈られた僧侶だ。

行基亡き後、半世紀ほど経って会津に入ったのが法相宗の徳一だ。
仏教王国の根本となる慧日寺(磐梯町、807年創建)は、宝の山磐梯山を拝む山裾に建立され、最盛期には寺僧三百、僧兵数千、子院三千八百を数えるほどの隆盛を誇った。

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            (徳一坐像 勝常寺)

徳一による仏教王国の背景には山岳信仰がある。
それを支えるのは、会津の豊かな鉱物資であり、古くから住み着いた技術者集団との連携があったはずだ。(続く)

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