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「写真を撮る」を信じる

撮った写真と向き合う際に「うまく撮れた」と思うことがここ数年でなくなった。カメラをはじめてすぐの頃は右も左もわからぬままふわふわ撮り、自身の意図と写真がすこしずつ連動しはじめるあたりで「うまく撮れた!」と思うことがたまにあったのだけど、それがない。その理由としては「できることとできないことを理解した」だけで、加えて新しい技術を学ぼうとしていないからだと思われる。

そして、写真を見ている時に思うこととして増えたのが「なんかすきだなあ」とか「以前撮ったなんらかの写真に近い気がする」もしくは「いいとは思うけどこれまでの写真とすこし違う」などだ。この言葉たちが意味するところは良くも悪くも『自分の写真』という枠ができていて、枠に該当するか否かを軸に写真を見ることが増えているということ。意識しているもの無意識のもの含め枠は複数あって、更にその枠自体揺れ動いたり大きさが変わったりする。だからたまに「え、この写真いいじゃん」と何年も前に撮った写真を再発見するようなことが起こる。この『自分の写真』という枠はものさしとルーペを兼ねたような存在なのだと思う。

それらをある程度因数分解するように項目として分けることはできる。けど、そうやって現時点でわかっていることを明らかにして「すべてを明らかにした!」と思いこむほど危ないことはないと思っていて、それゆえわたしが『自分の写真』という枠の詳細を列挙することは多分ない。わかっていないことはたくさんある。むしろわかっていないことの方が多いはず。だから写真を撮っている、と思う。

見えているものとかわかっていることとか、そういうものを手掛かりにするのは生きていく上で大事で、けどそれしかないと思ってしまうと途端にぬかるみにはまる。自分にわかること・わかっていることなんてちっぽけで、だからこそ一歩ずつ足をすすめてひとつずつ拾い上げていく上で「写真を撮る」ということはおおよそわたしたちの味方である。とわたしは信じている。


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