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【この本を読んで考えた】おらおらでひとりいぐも

 文藝賞を経て、2018年に芥川賞を受賞したこの作品。気になりながらも読まないうちに2022年日本人としては初めてのドイツの文学賞「リベラトゥール賞」を受賞とのこと。

 この小説は一人称は東北弁、三人称は標準語で書かれていて、東北弁に馴染みのない自分は目に入る情報を聞きかじりのイントネーションで再現し、それを普段の言葉に変換しながらの読書という形になった。

 子ども二人は家を出て、夫が亡くなった後一人で生きている75歳の桃子さん。
自分の行動の分析のみでなく、思考に対してもこれでもかと深く掘り下げていき、それはもう哲学の匂いがする域だ。また、かくあるべきという姿勢に対しては「だって人間だもの」を味方につけている自分などからしたらストイック過ぎるだろうと思うほどだ。これは私が自分に甘いだけなのだろうけど。

 桃子さんは自分のことを「おら」と言っていたのだが、小学校一年生のときに、教科書で僕という言葉やわたしという言葉を知り、わたしという言葉を使ってみたいが、それでは自分の住むこの町の空気というか風というか、自分を取り囲む花や木や人や人のつながりなどを足蹴にするような裏切りの気分になり落ち着かないと。それより自分の呼び名がふらつくようでは自分はこの先どうなってしまうのか。だらしなくあっちこっち心が揺れる人になりたくないという恐れがあったとのこと。

 私は幼稚園年長の時に引っ越して、一人称は「うち」から「わたし」に。「お父ちゃん、お母ちゃん」は「お父さん、お母さん」に。自分の育った浜手の言葉はあっさり新しい地の友達が使ってる言葉にと更新した。その後程なくしてまたもとの所に戻るが一人称は相変わらず「わたし」お母ちゃんじゃなくて「お母さん」で通していた。ちょうど桃子さんと同じ一年生だった。浮いているのはわかっていたが今更戻す気もなかった。ふらつきはしないが、桃子さんに比べて郷土愛が足りなかったのかもしれない。

 表紙の裏に『昭和、平成、令和をたくましく生きてきた"桃子さん"がパワフルに日々をかけぬける!』などと書いてあるが、そんな桃子さんでさえ孤独や寂しさを感じたり、死ぬ一歩手前の衰えを恐ろしい、自分で自分を扱えなくなるのが死ぬより怖いと思っている。あのパワフルな桃子さんでさえ怖いという気持ちになるのだから、柔な自分など、どう乗り越えていくのだろうか。漠然と気にはなってても、目を逸らせていた事に今回焦点が合ってしまって、少々ナーバスになったりもしているが、それは順当に歳を重ねてそこに行き着いてこそのことだし、心配するより前に何もかもわからなくなってしまっているかもしれないのだから、いたずらに不安がっていてもしょうがないかと。ただ、規則正しい生活を心がけ、今のうちから意識して体力をつけておこうとこんな真夜中に密かに決心したのである。

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