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月曜モカ子の私的モチーフvol.203「相棒」(2019.02.18 アーカイヴ)

グラミー賞のあった週というのは、その日生中継で観た後に、いいなと思う楽曲たちをその週聴いたり、この人知らなかったという人を調べたりして、造詣を深めた上でまた録画した映像を観たりするとより心に染むのでそんな感じにしているのだけど、個人的に一番お気に入りのシーンはガガのパフォーマンスのラストで「マークロンソンが転がっている」シーンだった。笑。

                            
このシーンを面白がるにはガガさんのことやいろんなことを少し深掘りして知っている必要があるので今日はその話をしたいと思う。

                            
アリー・スター誕生の名曲「Shallow」をガガさんがパフォーマンスすることは決まっていて、そのパフォーマンスがどうなるのか、注目されていた。

どうなるのか、というのは、あれはデュエット曲なので、例えばサプライズでブラッドリークーパーが登場するのか、とか、ブラッドリーじゃない場合、すごく意外なアーティストをシークレットゲストとして招くのか、とか、ひとりでパフォーマンスする場合、映画の世界観に寄せるのか、果たして・・・というところの意味の「どうなるのか」である。
果たしてステージに登場したガガは前アルバム「ジョアン」で組んだプロデューサーでありミュージシャンのマークロンソンたちと登場、全身メタリックラメの「ザ・グラムロック」な感じ(“ベルベットゴールドマイン”とかのあの感じ)
ガガさんは公のステージだとピアノを弾き語りながらシンプルに歌い上げる場面も多いのだけれど、今回は楽器を一度も弾かずに、スタンドマイクを持ったまま、簡単に言うとグラム的にエーモショナルに、I’m Falling, 
歌詞の世界観にある“落ちていく、落ちていく、僕たちは浅瀬にいたはずなのに”というものを叫びながら体現したどこか破壊的なステージだった。
先週も書いたかもしれないけれど「おお。こっちに振ったのか」と少しショッキング(驚き)なステージで、派手なパフォーマンスで盛り上がったけれど、アリーナの他の歌手やミュージシャンたちも「なるほど、こっちか」という顔をしているのがわかった。

                            
つまりアリーでは彼女はガガ色をすべて封印し、アリーとしてパフォーマンスしている、そしてここでは彼女がガガとして呼ばれているのだし、
ノミネートされているのも「最優秀ポップパフォーマンス賞」(グループに送られる賞、そして受賞した)なわけで“ガガ”を全面に出していく、そういう決断になったのだろうけどみんなどこか「アリー」てきな世界観の残像を求めていたのだ。でも“ガガ”はアーティストに深い敬意があるので、グラミーの授賞式を盛り上げるために「代役」を呼ぶなんて考えられない、あれはブラットリーとしか歌わないの、とか、そういう思いもあったのだと思う。
それで歌詞の世界観をガガとして体現するという方向にコンセプトしたんだなって、わたしとかはずっとガガの楽曲を聴いているし、マークロンソンとガガのドキュメンタリーも見ているので理解したのだが、
たとえばアリーを映画館で観て初めてガガを知ってあの曲がまた聴きたいな、と思ってグラミーを観た人は「なにこれ全然違う!」ってびっくりするような、そんなステージであったことは確かだった。
相手が違和感を感じようと自分のするべきと感じた事、そこを貫いていくのがガガスタイルだし、それがこれまでの賞賛を連れてきたし、しばしの批判も受けてきた。たとえばデビットボウイの追悼パフォーマンスでは、その異色なパフォーマンスがデビットボウイのファンたちから「ガガのためのショーみたい」と非難されたりもした。でもそれがガガなのである。
やるべきと感じたことが時にニッチな選択であってもそれをやり通さなくてはならない。

ガガは「Shallow」の受賞スピーチで「この作品はショービジネスの中にいるわたしたちにとって身近な問題、つまり心の病に、我々アーティストはいつも近いところにいる。自分が苦しい時には必ず仲間を呼んで。助け合おう」と言った。今年受賞したカーディ・B、過激なラップで知られるけど、自身が受賞するなど思ってもみず、震えてひとりでは立っていられなかった、そんな繊細さもある。エイミーワインハウスもあっという間に死んでしまったしArtistは強くで脆い。強いというのは表現に対してであって、強いというか嘘がつけない、に近い。
嘘がつけないからいろんな人の反対を押し切って大舞台で突拍子もないことをする。だから強い人なのだと思われる。
                            
けれどもそれはそのスイッチの瞬間だけのことであってバックステージではみんなとても脆くて危うい。それが芸術家という生き物なのである。
それらを知らない人はたとえばわたしに対しても、大きな規模(たとえば本だと何千部も刷って日本中に配布される)で人の心を動かすのだから、それだけ「ちゃんとしなさい」というようなことを言うのだけど、わたしたちはバックヤードではとても脆くて自信がなくて感情の振れ幅が広く危うくて「ちゃんと」なんてできない生き物なのである。オリンピックや何かの試合など、人間の獣としての本能を呼び起こさないと成し遂げられない仕事についている人(アスリート)なんかに対しても有識者的な人は「ガッツポーズをするな」「叫ぶな」「知性あるコメントをしろ」とか、ボクシングの後ですら言うけど、それを要求するのって、違うよね、って思う。生理的動物的にある種の興奮状態に持って行って試合をしているのに、数分後に人間らしく、なんて。

                            
ガガとかケイティペリーとかエイミーも、ドキュメンタリーを見ていると、そこいらの女の子たちよりずっと弱い。泣いて、泣いて、泣きながらアルバム作って、
失恋してるのにツアー中でバランスが保てなくてまた泣いて、その不安定な日々の中に「スーパーボウルのハーフタイムショー」みたいな、割とタフな人間でも怯えるようなスケジュールが入っている。それが芸術家の暮らしである。

「ジョアン」というアルバムはマークロンソンと作っていて、ドキュメンタリーを観ていると、もう彼はほぼほぼ恋人のように見える。さらけ出して作品を作らないといけないのでそうなる。他の仕事に行かないといけないからと扉を出て行くマークロンソンに「行っちゃ嫌だ寂しいし不安なの」と泣くガガ。「大丈夫アルバムはほぼ出来ている、最高のアルバムだ」と励ますマークロンソン。

                     
マークロンソンは、グラミーのそのステージの中で、誰よりも深くガガに寄り添っていた。彼女がこのステージでやりたいこと、しなければならないと感じていること、それはある種類の人たちには「普通でいいのに。映画のままの感じでやってくれたらいいのに“余計なことをして”」と思われるということも、彼は重々わかった上で、一緒にパフォーマンスしていた。
コンセプトを深く理解し、それに寄り添ってくれる相棒の存在ほど心強いものはない。その瞬間ここに何億人の人がいようと、二人きりになれる。二人きりになれる、というのはその他の人を排除しているのではなく「ひとりじゃない」ということだ。何億のひとを相手にしてひとりでその表現のジャッジをされ時に叩かれ責任を負う、それがひとりじゃない、ということ。


信頼できる編集者や、Utataneを一緒にやっている親友たち、土曜バイトのイタリアボスや、ねじリズムの人たち。
あなただけはわたしの表現に心から寄り添う覚悟でいてくれているよね、そういう存在によってそこに立つことができる。それはガガさんもそうなのだと思う。パフォーマンス後半、ガガさんとマークロンソンは、同じコンセプトのもとにおのおのの表現をしていて、向かい合って歌い合うみたいなことはなかったけれど、ガガが歌いおわったとき、その背後でマークロンソンは転がっていた。
このパフォーマンスの最後にある種の「崩壊」「死」「終焉」を持ってくるというグラムロック的なラストを共有していたのだ。ガガさんは身じろぎもせず瞬き一つせずに止まっていて、奥で転がっているマークロンソンもまた微動だにしなかった。このマークロンソンの「俺、ちゃんとコンセプト共有してるから大丈夫だよガガ」という全身全霊のサポートをひしひしと感じて、わたしは感動し、
そしてそんなfunnyなマークロンソンが愛しくて微笑ましくて笑ってしまったのである。

(イラスト=Mihokingo)


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