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月モカ(2021番外)「わたしはいま、1㍉も自分を信じていない、それでもやっぱり地球は回ってる」

執筆とレディオに追われる日々を送っている。
2019年、店に立ってて「小説家さんということはじゃあ昼間は執筆を?」と訊かれた時の歯切れの悪さはどこへやら「ハイ執筆してます、執筆していますとも。もはや執筆以外に何をするんですか」レベルに執筆している。
どれだけ膨大な原稿をこの夏、壷井さんに送っただろうか。
それらを精査して現在進行中の「新作」を、連載形式で壷井さんに送るようになってからも早何十日? 普通の連載と違って、実際は掲載してないので、ゆえに普通の連載よりも凄まじいスピードで書いている。
毎週原稿用紙換算で30枚〜50枚近い原稿を、毎週ざっと木曜〆切で、納品している。書いている書いてる。
けれどもわたしは、今1㍉も自分を信じていない。
それでも地球は回ってる。厄介な話。

(タイトルの雰囲気の割にとりあえずダウナーな話ではないです。なのでダウナーなのが読みたい人には向かないし、ダウナーな話が嫌な人に伝えておくけどそうではない)

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久しぶりにさっき葉巻を吸った。
引っ越しの際「おお!こんなところに」みたいな感じで発見して捨てずに持ってきた葉巻。根津界隈に引っ越してから、一人でベランダで過ごすのは初めて。心を決めてからは1つの作品を撮って、そのままサパっと振り返りもしなかった神楽坂の武石ビルだけど、今思えば、
あのビルの広いルーフトップで満月の日は月光浴をしながら葉巻を吸って、ドレスコーズを聴いていたのだな。懐かしい。

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怒涛のようなレディオvol.3を終えて、相方のめんちゃんこと石川シンと、さすがに心の底から「Whatever」な数日をと(笑)今週月曜のレディオ稽古はオフになっていたので昨日→今日はベスフレとほへ丸と過ごし、みんなでレディオでまさに”なう”だった萩の湯♨️に行って、ベスフレは我が家に泊まった。子どもはあっと言うまに大きくなるから「今、ここ」を逃さず、日々を焼き付けていかなければならない。しかし虚弱モカコ、帰宅後は4時間ほど、誰とも話さずベッドの上で独りでマグロになる。つまり動かない。

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人が好きなのに、独りの時間がないとHPが0になる。よくそんなんで店やってんなって感じ。独りの時間がないと瀕死になるのに、今朝常連で友人の精神科医りさこに連絡「今日夜何してんの」と言うと「明日の人間ドッグに向けて大人しくしてる」とのこと。りさこに会えないの寂しいが、ここで絶対りさこ注入してたら気絶でしょ。全く何やってるんだか。

りさこはさすが精神科医なので、わたしから誘っているにも関わらず「モカコさんご無理しないでね。体弱いんだから」と返信をくれる、わたしよりわたしを解っている人。

ところでタイトルにも書いたようにわたしは今、1ミリも自分を信じていない。それでも地球は回っている。なんの話か。最近話題に出ないなあと思っていたあなた、そう「わたしと音楽、恋と世界」の話である。

この物語は、今まで仕事をしてきた出版社2社からとも出版に至らなくてじゃあということで太宰賞に応募し、その1次にすらかからず、出版市場に現在ノーサンキューなのはよくわかっているし、それどころか友人知人からもこう、大きなリアクションを1つも貰えてない「凪」の作品です。

けれどわたしは日を追うごとに「あの作品は中島桃果子にとって最高にロックンロールで、誰もが読んだことない筆致で語られる大傑作である」という感覚から、もう、どうあがいても逃れられなくなった。

なんで? あれ最高やん。あんな感じの本てみんな読んだことある?
清志郎的に言うと完全に ♪聴いたことのない〜ヒット曲〜〜bebebethePOPS!!!(正確にはRocks)って感じなんやけど。

けれど現実にはそれと大きな乖離がある。それはわたしもわかっている。
わたしの感性はいま、市場と合っていない。わたしは生前のゴッホになってしまった。敬愛する志磨さんは「ゴッホじゃやなんだ」と歌っていてゴッホではない。でもわたしはいまめっきりゴッホである。ゴッホに失礼です! そういう角度の指摘はいまは受けない。そういう話じゃなくて、生きている間に自分の信じている作品と市場が合わないってことがもたらす自身の狂気の話です。つまりそうするともはやこれまでの、驚くほど大手から本が出まくったデビューから5年ほどのあれはなんだったんだという恐怖にかられる。評価されていたものが評価されなくなる恐怖ではなくて、その大手から出たどの本をも凌駕する作品を書いたのに、それがまるで現在の市場にとっては石ころみたいなものであることがとても怖い。

そしてそれでも地球は、それでも「わたしと音楽...」は回っていて、
あの作品は中島桃果子の、かつてない最高傑作なんである。その矛盾さ。

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(Photo by Shin Yamazawa 2019 / at  Innocence Define)

そうなるともう、すべての当たっているもの達が輪郭のない湯気のようなものに思える。イーディがさ、今こんなにみんなに支えられて賑わっているのはなんで? もしかしたらわたしがいつか「これが最高のイーディよ」ってものを作り上げた時に店はノーゲスになる可能性があるってこと?

そういう風に考えていくとさ、もうもはや自身のことなど1つも信じられなくなる。今、イーディは賑わってるけど、もしかしたらわたしに女主人としての才覚があるわけじゃないのかも。デビューしてから数年は、びっくりするくらいに書くもの書くものが本になったけどそれは「時代のせい」だったのかも。

え、じゃあ時代ってなんなんだい。
時代と仲良くできることもれっきとした「ひとつの才能」ではないか。

しかしわたしは時代の評価に迎合できない。
「わたしと音楽、恋と世界」が絶対的な名作だという狂気の外では息ができない。だから今、わたしは自分を、1㍉も信じられない。だってわたしが狂っているのかもしれんから。

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そしてこっから先が「この記事ネガティヴじゃないよ」と言った理由なんだけど、そんなわたしが信じられるものそれはもう「盟友たち」しかないということ。自分で自分のことが信じられへんのやから、自分を信じてくれて関わってくれている盟友(自分がその才を信じている盟友)を信じる以上の羅針盤がない。自分が相手の才を信じてることが大前提で、わたしは壷井さん以外の編集者にはこんなに素直に「ボツ→書き直し」「指摘→わかりました」とはしないだろう。わたしはとても頑固な女で、なので太宰賞の、誰かわからない下読みの人より壷井さんを信じている。しかしその壷井さんが「あれは...」という感じだったので今ではその下読みの人のことも信じている。笑。

新作編集の壷井さんしかり、レディオ相方のめんちゃん(石川シン)しかり、明らかにわかることは可能性への共犯でしかなく、共犯である以上、相手の人生に多大なリスクがかかっている。

それを超えて組んでくれているんだから「じぶんには何かあるはずだ」と思って取り組むしかない。こんなにも自分が敬愛している相手が、人生を懸けて関わってくれているのだもの。

(☝︎新番組のレディオは全体的にとても良き感じに展開できている。この番組に関してだけ得体のしれない確信がある。笑。)

つまりわたしは今「誰のために」本を作るのか。
それはもう、編集を引き受けてくれた壷井さんが見据えるたくさんの市井の人々であり「滋賀で1番のベストセラーにしよう」って言ってくれている、がんこ堂さんが見据える読者のため、なんだよな。

わからない。自分自身、なぜこれまでの過去作よりも「わたしと音楽...」が人に伝導されなくて、今の新作が、正直これでよいかどうかも。

ただとにかく今は壷井さんを信じて頑張ることが「わたしと音楽... 」にも繋がるのだということだけはわかっている。

今日、葉巻を吸いながら思った。もしかしたら自分自身を強く信じすぎていない時の方が人はいいのかもって。笑。

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よく考えたらさ、いいことしか覚えてないから「直感大事説」となえてるけどさ、それで随分失敗もしたよね。笑。
そう考えると、わたしのこと、もう十数年以上よく知っていて、
「モカコ(モカコさん)、もっとこうすればもっと人々に理解されるのに」って思ってくれている人の羅針盤を信じるのがわたしの羅針盤、て方がよくないか?壷井さんほどわたしという作家を奮起させられる人もいないしね。

そう、今わたしはわたしは1㍉も自分を信じていない。
それでも地球は回っている。

わたしの内面は、ひどくガリレオガリレオ。

だけど民に届く物語が書きたい。

ゴッホの意固地さで、ゴッホじゃやだと叫んでる。

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(↑蒼さんありがとう!!!死ぬほど感激しましたがそれをまだ1㍉も発信できていません...)

久しぶりに思っていることをただただ書いた。
この記事を久しぶりの月モカに替えて。
よろしくどうぞ。
(執筆終わり次第、月モカは再開するつもりだよ、しばしお待ちください。待ってないかもしれんが。←自分信じられてない人。笑。)

☝︎チャンネル登録、お願いシマス。笑。

長く絶版になっていたわたしのデビュー作「蝶番」と2012年の渾身作「誰かJuneを知らないか」がこの度、幻冬舎から電子出版されました!わたしの文章面白いなと思ってくれた方はぜひそちらを読んでいただけたら嬉しいの極みでございます!