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2024/3/21木 大学院へ「逃げた」こと

3月末で大学院を修了する。

大学の図書館で借りていた本を返しに、久しぶりに大学まで行った。
6冊の本を返した。
修論のために何度も読み返し引用した本も含まれていて
返却カウンターで1冊ずつバーコードを読み取られていくことも
図書館の職員の方がPCで画面を確認し「これで全冊返却済みですね」と確認をしたことも
すべてが別れの儀式のようだった。

ついでに卒業後も図書館を利用できる卒業生カードを作る予定だったのだけど
なんだかやめておこうという気持ちになった。別れの儀式があまりにもよかったからかもしれない。
たぶん、もう、卒業式が終われば、ここに来ることはないんだろうな、と思った。
家との導線を考えても、わざわざ用事がないと立ち寄らない場所に大学はある。
この大学の図書館に本を借りに来るとは考えづらい。
借りたら返さないといけないのだし。

大学図書館は、公営の図書館だと超絶順番待ちの人気書籍もけっこう早く手に入るし、公営図書館にない学術書も(当然だけど)たくさんあって、本当によく利用した。だけどたぶん、もうお別れだ。

せっかくなので大学周辺で最後のランチでも、と思って授業の合間によく行っていたお店に行こうと思ったけど、ふとみつけたパスタのお店のランチ前菜がバーニャカウダで、バーニャカウダうまそうすぎて思わず初見の店に入ってしまった。
そしたらなんとパンもおかわり自由、さらにはホイップバターもおかわり自由で、ランチメニューにはわたしの大好きなレモンパスタもラインナップされており最高だった。
ただ、もうこのお店にはこないだろう。この街にくる機会はないだろうから。
もっとはやく出会えばよかったね。

ひとつひとつ終わっていく。

社会人で大学院に行くって、向上心あるとか意識高いとか思われがちだけど
わたしは2年間、大学院に逃げていたの。
「学生だから」を免罪符にして。
大学院に行って、生まれて初めて論文を書いたことは、人生にとって本当によかったことだと思っている。世の中に対しての現時点の自分なりに思考し、考察した結論・意見を、自分の言葉ではじめて表出できた気がする。事象をぼんやりながめ気持ちとして処理するのではなく、先人たちが生み出してきた概念を知ることで、事象が解釈可能になっていくことも、概念化する、事象に名前をつける、言葉を与える作業により見える世界も、結論(主張)ありきでう材料を集めるかではなく、不思議だなと思う現象について予想を用意しすぎず何が起きているのかからまずは調べることも、「他者の合理性」(岸政彦先生の著書より)という考え方を知ったことも、どれもが人生において重要なことだった。なによりも、わたしの人生における大きな興味関心は、「エンパワメント」にまつわることだったのだと言語化できたことは大きな喜びだった。ようやく道標を手に入れたような。

だけども
「ものすごく価値のある2年だったじゃない」と思う自分に
すきあらば
「ただ、現実から、逃げていただけじゃない」という意識がまとわりつく。

なぜなのかしら。
本当はやるべきことがあるって思っているのかしら。
経験を、学んだことを、活かせないからなのかしら。
経験は活かすべき、活かさねばならぬというふうに思っているのだけど、どう活かしたらいいかわからないからなのかもしれない。
直接的ないかしかたは何もない。
何か具体的な能力や資格を得たわけではないから。

返却した6冊の本とともに「学生」でなくなってしまうことが
恐ろしく感じたりもする。

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