見出し画像

書くということ。




自分の思いを書き留める。

書くという思いの奥には、読んでもらいたい、もしくは読まれてしまうという意識も働いているので、自分の中でそういう衝動もあるんだなぁと気付く。
もちろん書く事によって、頭の中を整理したり、まとめたりする目的もある。

その思いを少し深掘りしてみる。

学生時代、私は書く人になりたかった。
その当時は、小説家と公言していたけれど、ストーリーを造るという事にはあまりピンとこなかったので、ただ書く人になりたかったのだと思う。
なぜなら、本が好きだったから。
本屋に行くと、たくさんの本に囲まれて、とてもワクワクした。
好きな小説家や、興味のあるジャンルの本、惹かれるタイトル、今、流行りの本などパラパラとめくっては、気になった数冊を購入し、その本の世界に没頭するのがとても好きだった。
その後の余韻や、自分に問われていると感じている事柄に思いをめぐらせる時間もとても好きだったから。
  
そして、書くことも好きだった。

溢れんばかりの気持ちを、ただ紙に走らせたり、少しばかりの工夫をして自分なりに文章を組み立てて書いたり、その時の思いを綴り、そして、それらを読んで感想を言ってもらったりすると、ただ単純に嬉しかった。
なぜだか、少しスッキリとした感覚になり、私が読み手だった時の様に心を動かしてもらえた事に喜びを感じたりした。


けれど、書く人とは違う道を歩いていく事になる。
書くっていう生活じゃない生活をしていた。
書こうと思えば、自分の日記にでも書けたのだけれど。
 
その当時は人とがっつりと関わることをしていたから。
話し合うってことを。
いろんな側面で。

そんな生活を長くしている中で、書くという事を忘れる事にしていた。

だって、時間がないもん。
書かなくても、相手に伝えているから。
書く事がない。
などなど、全部まとめて書くって事を棚の上に置いていた。
そんな中で、インターネットの発達により、誰でもいろいろな場所で普通に書いている時代になっていった。

知らない間に、情報がたくさんあって、例えば何かの記事を読むと、次にいろいろとおすすめされたりするようになった。
すると、ちょっと辟易していた私もいたりした。
書く人には、もうその人の結論があったり、その上で、読み手に問いかけをしているので、読み手はその思いを消化できないじゃないか?   
とか思ったり、何か一方通行な気がしたり、全然、内容が入ってこなかったり。

書き手の1人よがり、マスターベーションに感じたりもした。
ので、本(文字)を読む事が少なくなった。

まぁ今思えば、物理的にも本を読む時間もあまり取れなかったし、そういう意味では余裕がなかったのかもしれないな。

で、今、また書く人になりたいと思っている。
棚の上から、埃をかぶった書くっていうこと。
埃だらけだから、まず埃をはらってみようと思う。

子育ても、ひと段落。
介護も、もう母親だけなのでそんなに大変じゃない。
1人暮らしみたいなものだから、物理的にも時間にも余裕がある。

そんな中で、先程の疑問も、自分に置き換えている。

果たして、書き手は結論が出ているのか?
それで問いかけているのか?
一方通行なのか?
私のマスターベーションではないのか?

そうではないと頭の片隅でわかっているけれど、これから私は書き手となってそこを感じていくんだ。

今、書きながらふと思ったけれど、私が生きていた何かを残したいというシンプルな思いかもしれないな。
書きながら気付くという事もたくさんある。

決めた。
続けていく。
月に1本でも。
書くことを。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?