千と千尋の神隠し 考察&感想①


6月26日から全国の映画館で『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ゲド戦記』の上映がスタートしました。

大好きなジブリ映画をスクリーンで観られるとは何と贅沢な!と早速『千と千尋の神隠し』と『ゲド戦記』を観に行ってきました!ストーリーも台詞も大体頭に入っているはずなのに何度観ても毎回楽しめますね…。やっぱりジブリは最高です。二本文の感想を書くとものすごい文章量になってしまいそうなので、今回は『千と千尋の神隠し』の感想と考察を書いていきたいと思います。


・「自分は何者なのか」


『千と千尋の神隠し』は本当に名作です。名台詞、名シーンに溢れていて、いろいろな楽しみ方や見方ができる作品であり、ストーリーの中から様々なメッセージや教訓を読み取ることができます。

私は『千と千尋の神隠し』から「自分は何者なのか」というメッセージを強く受け取りました。

自分が何者であるか知るということは生きていく上で非常に重要なことだと思います。自分を受け入れなかったり自分を見失ったりすると、周りの人だけでなく自分自身や、自分の大切なものさえも傷つけてしまいかねません。

千尋やハクに限らず、この作品の登場人物は皆「大切なもの」を探しているように見えます。そして、大切なものと結びつくのはいつでも「自分」というかけがえのない存在でした。自分という存在を知り、信じることで大切なものを見失わず守ることができるのではないでしょうか。

この作品の核に繋がる重要なセリフはほとんど銭婆が言ってくれていると感じますが、その中に「大丈夫。あんたならやり遂げるよ。」というものがあります。これは物語終盤に千尋を送り出す際のセリフで、この物語で私が受け取った色々なメッセージをまとめて、全て表現しているように思えます。

自分が何者かわかっているなら、「大丈夫」。そう聞こえます。


今回は、この「自分は何者なのか」という点に注目してストーリーを追って行きます。


・重要だと感じたキーワード一覧


「自分」「働く」「名前」「カオナシ」「忘れる」「思い出す」「電車」「母と子」「ほんとうの」


・千尋が迷い込んだ油屋


不思議なトンネルを抜け、千尋とその家族は神様たちの世界に迷い込んでしまいました。お客様に用意された食事を勝手に食べてしまった千尋の両親は豚にされてしまい、自分の両親を助けるために千尋は油屋で働くことになります。

油屋は働くことでしか己の価値を証明できない世界なのかな、と思いました。

「仕事を持たないものは湯婆婆に動物にされてしまう」「働かなきゃな、こいつら(ススワタリ)の魔法は消えちまう」といった台詞に見られるように、油屋の中では働くことでしか市民権を得ることができず、働かざる者は家畜や物質のような自分では何もできない「モノ」に変えられてしまっています。つまり「働かないやつ=役立たず、ダメなやつ」という認識です。

もちろん家畜や石炭が無価値なわけではありませんが、これらのモノが言葉を発して自己表現をすることはなく、仮にしたとしても無視されてしまう可能性が高いです。この世界において働くことは唯一の価値基準です。そのため家畜や石炭など自分だけでは何も出来ない「モノ」は、言葉と知能を持ってコミュニケーションを図り労働ができる者に比べたら無力な存在とされてしまうのではないでしょうか。家畜、石炭、スス、それらは「無力な存在」の具象化と言えるでしょう。

油屋では働かない者に価値はなく、皆が骨身を惜しまず働いて利益を出さなければなりません。まるで資本主義や労働に支配されている消費社会のようです。

この社会は利益を最大化することを唯一の目的とした大きな機械であり、社会に属する人間は利益を追求する歯車として消費されていきます。自分じゃなくても、いくらでも代わりがいる世界です。でも社会から追放されると生活できなくなってしまう。社会に居続けるため、自分が使い物になるんだと証明するには働くしかありません。だから皆が力尽きて使い物にならなくなるまで働き続けるのです。

こう書くと油屋がスーパーブラック企業のように思えてきます…。

千尋が迷い込んですぐの油屋はたしかにブラック企業と言って間違いないでしょう。弱音を吐いたら子豚にされる条件付きの理不尽な契約書、人間だからという理由で受ける不当ないじめ、キツイ汚い危険3Kフルコンボの業務内容、圧倒的パワハラ率…挙げたらキリがないですね。

しかし油屋も物語が進む中で変化していったように思われます。千尋が油屋を出る頃には、少なくとも来てすぐの頃よりは黒さがマシになったのではないでしょうか。千尋の存在と大きな関係があると考えられますが、それは後ほど書かせてください。


・名前が果たす役割①


名前は、『千と千尋の神隠し』において最も大きなキーワードと言えるほど重要な存在であり、「自分が何者であるか」を知る上で必要不可欠な役割を担っていると考えられます。

湯婆婆は名前を奪って相手を支配します。契約書に書いた名前を湯婆婆に取られ、千尋は「千」として油屋で働くことになりました。そしてその翌日、ハクから受け取った服に入っていた「ちひろ」と書かれたカードを見るまで自分の名を忘れていたのです。

この湯婆婆の行為は、「名前を奪う」というより「本当の名前を忘れさせる」という感覚に近い気がしました。

名前とは、自分自身を証明するものです。

「名は体を表す」とありますが本当にその通りで、その人の名前がその人がどのような人物であるのかを表しています。世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな名前があると思います。そして、人に名前がつけられる時にはいろいろな願いが込められています。

つまり、名前とはそれぞれの願いであり個性でもあります。自分がどんな人物でどんな風に生きるのか…ここではこれを「じぶん」と表現することにしましょう。

個性や生き方など、「じぶん」がはっきりしている人はどのような場所に行っても揺らぐことはありません。しかし、「じぶん」がなかったりぼやけている人はじぶん以外の何かに従属していないと流されて消えてしまいます。これを湯婆婆は利用したのではないでしょうか。

湯婆婆は相手の名前を奪うことで名前が表している本当の「じぶん」を忘れさせ、油屋という社会システムに縛り付けている。おかげで油屋の従業員たちは操られたように働かされていますよね。ある種の呪いと読み取ることもできます。

名前を奪うという行為は、「じぶん」を忘れさせて視界を曇らせる呪いなのです。自分が信じるもの、つまり「本当のじぶん」を見失って善悪や真偽の分別がつかなくなってしまいます。この呪いのせいで、名前を取られたハクは湯婆婆の言いなりになって銭婆のハンコを盗んでしまっています。

同じように千尋も名を奪われ「千」としての生活を余儀なくされました。しかし自分の本当の名前、つまり「じぶんが何者なのか」ということを忘れずにいたため、完全に呪いに支配されることなく視界がクリアなままだったのだと考えられます。





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