千と千尋の神隠し 考察&感想③


①と②も公開しています!


・電車が表していること


トンネルを抜けた先の世界にも電車があり、千尋は実際に電車を利用していました。

電車とは敷かれている線路の上を走る乗り物です。そしてあの世界の電車は「行きっぱなし」です。戻りの電車は走っていません。①で解説したような油屋の性質からみて、あの世界における電車とは、人生を表現しているように見えました。

「行きっぱなしで帰りはない」と電車は、人生でいうところの決められた道を進むしかなく引き返すことはできないということにあたります。

しかし千尋は「帰りは線路を歩いてくるからいい」と言いました。

本来、人生とはそういうものなのではないでしょうか。

人はいつでも新たなスタートを切ることができます。時間は戻りませんが、「人生」であればやり直しが効くものであると私は考えます。それなのに人生はやり直しが効かないと思い込んで、自分が壊れるまで頑張りすぎてしまう。そういう人たちがとても多いと感じます。

あの世界の電車には少なくとも6つの駅がありました。途中下車していく人たちもいます。いつどこで下車して寄り道しても、またその場所から新たな目的地に向かえばいいのではないでしょうか。千尋には「ハクを助ける」という目的があり、「銭婆のところへ行く」という手段をとって電車を利用しました。千尋が下車した「沼の底」という駅も終点ではありません。あくまで彼女も途中下車なのです。

「何がしたい」という目的があるのならば、電車は目的の場所まですぐに連れて行ってくれる便利なものです。先ほど電車は人生を表しているのではないかといいましたが、私たちの人生とは私たちが設定した目的地に着くためのものです。目的地は一つでもそこへ向かう道はたくさんあります。直通を利用するのも、乗り換えたり、途中で降りて寄り道するのもその人の自由です。

「電車とは人生そのものでなくあくまでも手段である」ということを伝えているように感じられました。


・油屋の変化


ハクと千尋が油屋に戻ってきた際、油屋の従業員たちは千尋を歓迎していました。①で油屋は千尋によって変化したと書きましたが、その様子がここに現れており、このような変化が目に見えるようになったのは二つの契機があるからだと考えられます。

ひとつはクサレ神が油屋に来たときの千尋のはたらきです。油屋に来てすぐだというのにクサレ神の世話という大仕事を任されやり遂げました。これには湯婆婆も大喜びし、千尋をひたすら褒めていました。あの大成功を目の当たりにしたことと湯婆婆の「みんなも千を見習いな」という発言は、油屋の従業員の千尋に対する態度が変わるきっかけとなったと言えるでしょう。

もうひとつ、千尋は名前を奪われて労働者となった従業員たちの中で、恐らく唯一本当の名を忘れずにいた存在なのではないでしょうか。千尋が生来優しい子であったのもあると思いますが、「自分」を見失っていなかったため視界がクリアなままだったことが大きいと思います。カオナシの暴走で油屋が危機に追い込まれた時も千尋はカオナシに呑まれた従業員を救っていました。千尋の視界がクリアだったため、利益の追求だけでなく人助けをすることも見えていたのだと思われます。

終盤、従業員たちにとって千尋は災厄を持ち込んだ張本人でもありましたが、紛れもなく「油屋を救ってくれた存在」でした。その千尋の真っ直ぐさに触れたことが、自分たちの生き方や考え方の変化につながったのだと思います。

何より油屋とは「神様たちのお湯屋」であり、誠心誠意お客様をもてなすところです。人間だったとはいえ千尋もまれびとであることに変わりはありません。「気持ち良くなって帰ってもらう」という油屋の精神がラストシーンに見えたような気がしました。



・千尋はあの世界のことを覚えているか


千尋が元の世界に戻る際、ハクと千尋は再会の約束をして別れました。その後ハクに言われた通り振り向くことなく進み、トンネルを出た後、千尋はさっきまで自分がいた世界のことを忘れているような様子でした。

きっと、油屋で働いていたことも、両親が豚にされたことも、ハクに出会ったことも覚えていないのだと思われます。

ひとつだけ、銭婆の家でもらった髪留めは残っていました。理由は簡単で、あれは魔法で作られたものではなかったからです。ここから推測するに、魔法でないものは残り、魔法に関連する出来事は思い出せなくなっているのだと言えるでしょう。そのため魔法が息づいていたあの世界での経験は千尋の記憶の深いところに追いやられてしまったのだと考えられます。

この物語のキーとなっていることは殆ど銭婆が言ってくれていると①の頭の方に書きました。ここでは「一度あったことは忘れないものさ、思い出せないだけで」というセリフがキーになっています。

トンネルの向こうで起きたことを、千尋は忘れていません。思い出せなくなっているだけなのです。頑張って働いたことも、いろいろな人に助けてもらったことも、もちろんハクのことも彼女自身に刻まれているはずです。

思い出せないけれど、ハクに助けてもらってハクを助けたことは千尋の中に残っています。「またどこかで会える?」と聞いた千尋にハクが「きっと」と答えたのは、あの世界で起こった一連の出来事は記憶のどこかに残り続けることを見越してであると考えられます。

自分で覚えていなくても、あの世界での経験は千尋にとって大切な記憶であり、成長の糧になったと思います。


・感想


ここまでとても長い文章を書きましたが、まだまだ書ききれていないことや言葉にできないけれど感じたことがたくさんあります。しかも今回書いた考察(と呼べるかどうか怪しいもの)はひとつの見方にすぎず、もっとたくさんの考えや意見が私の中にもあります。私以外の人の意見も聞いたら数えきれないくらいの意見が集まるのではないでしょうか。それくらい、たくさんの見方ができる作品です。改めて、『千と千尋の神隠し』ってすごいなあと感じました。

ジブリ作品はどれも好きですが、『千と千尋の神隠し』は私の中でもかなり上位に来るほど好きです。幼い頃からジブリを見ていた私にとって、映画の中で人が死なないというのは大きな理由のうちの一つだと思います(笑)。しかし成長してから、「誰も死なない」この映画を本当にすごいと改めて感じるようになりました。この映画の主題歌の『いつも何度でも』は生と死の不思議を歌っているものですが、劇中に目立った死の描写は見られませんでした。「生きること」が描かれているだけです。

生と死は密接な関係にあります。生きるとは死に向かって歩き続けることであり、死ぬとは生きてきた時間を終わらせることです。つまり死を目前にしたとき、振り返って見えるものは自分が歩いてきた人生です。「どんな人生を歩いたのか」。死ぬ前に向き合うべきはそこであると考えられます。

死に向かって歩く私たちが考えるべきは、「どんな人生を歩むのか」であるのではないでしょうか。どんな人生にするのかは全て私たち次第です。しかし自分が何をしたいのかわからないままでは、どのような人生にしたらいいのか迷っているうちに死んでいくことになってしまいます。

自分が何者であるか知る、ということは自分の歩む人生を知るということに直結すると考えられます。ここでいう「知る」とはすでに誰かに決められた人生の道を懐中電灯で照らしていくということではありません。自分で仮説を立て、実験してみて、たくさん悩んで試行錯誤した先に自分なりの答えを見出すということです。『千と千尋の神隠し』には自分が何者かであるのか、その上で何をすべきなのか苦しい経験をしながら探っていく千尋とハクの姿が描かれていました。「生きる」というのはそういうことなのではないでしょうか。苦しくても「じぶん」を信じることができていれば、助けてくれる大きな存在があれば「大丈夫」なのだと思います。ただ死に向かう人生は辛いように思えるけれど、大丈夫だからしっかり生きて。といったメッセージを受け取ることができました。

素敵な世界観、豊かなストーリーのなかに、大切なメッセージを見ることができる。そんな作品だと思います。全人類に見てほしい作品のうちの一つですね。友達集めて応援上映もしたいです。


そんなすごい作品が今なら大きなスクリーンで1100円(大学・専門)払うだけで観られちゃうので、まだ観たことない人はもちろんもう何十回と観たよ!っていう人でもぜひ観にいってみるといいですよ!

(客席がソーシャルディスタンス仕様なので視界にスクリーンしか入らなくてめちゃくちゃ集中できます!)



ここまで長いことお付き合いいただき、ありがとうございました。




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