千と千尋の神隠し 考察&感想②


①と③も公開しています!



・名前が果たす役割②


①の方で、名前は「じぶん」を表していると書きました。そして名前を奪われると本当の自分を忘れさせられて、真偽や善悪の判断が鈍ってしまうのです。

もうひとつ、ハクは「名を奪われると、帰り道がわからなくなる」と言っています。

わたしはここで名前=帰り道、ではなく名前=帰る場所だと考えました。

帰り道がわからなくなる、と言っているのは帰る場所を思い出せなくなったためではないでしょうか。目的地がわからなければ、そこへたどり着く道も当然分からなくなってしまいます。

先ほど言った通り、名前は「じぶん」を表しているものです。「じぶん」とはすなわち自分が信じるものであり、アイデンティティであり、自分の帰属する場所です。

私たちは普段いろいろな自分を使い分けています。例えば私の場合、学生としての「平野」、バイト先での「平野さん」、友達といるときの「はるか」など、それぞれの場面に応じて「求められる自分」を演じているように生活しています。これらは全て自分以外の何か、誰かに合わせているときの自分ですが、このようなことをしていると時に「本当の自分は何なんだろう?」と悩むこともあります。

しかし、自身が信じられるもの、つまり安心できる場所である「じぶん」があれば悩むことはありません。

「じぶん」とは、私たちの中にある家のようなものなのです。

家があるから外に出ていけるのであり、帰るべき「じぶん」があるから違う場所でも頑張ることができるのではないでしょうか。

ハクは、帰る場所である「じぶん」を思い出せないから帰り道がわからないのだと考えることができます。帰るべき場所がないなら油屋に身を置くしかありません。しかしハクは名前を取り戻して自分が何者であるか思い出すことができました。「ニギハヤミコハクヌシ」という自身のアイデンティティを呼び起こすことで、帰るべき「じぶん」とその帰り道を明らかにしたのだと思います。


・「カオナシ」


カオナシを漢字に変換すると「顔無し」になると考えられます。

顔というのは例えば「会社の顔」という使われ方もあるように、そのものの印象を呼び起こす媒介となるものであると言えます。そのため顔がないということはその人の印象を想起させるものがないということになるので、アイデンティティがないということになります。すなわち「じぶん」がないとも言えるでしょう。なのでカオナシは自分以外の何かを拠り所とするしかない、根無草であるのです。

しかしカオナシは千尋を見つけました。千尋には「お父さんとお母さんを助けて元の世界に帰る」というはっきりとした目的があり、本当の自分の名前を忘れずにいます。千尋は「じぶん」を持っている存在なのです。カオナシは自分にないものを持っている千尋に近づいたのだと考えられます。

カオナシは千尋が「じぶん」をくれると思っているから近づきます。ここでカオナシは明らかに持たざる者です。しかしカオナシは千尋にいろいろなものを出してやっていましたよね。持っていないからこそ与えて、その見返りを求めているのではないでしょうか。

ここには自己肯定感と自己有用感が関わってくると考えることができます。

カオナシはが千尋や油屋の者に何かを与えているのは必要とされたがっているから、と捉えることもできます。カオナシには「じぶん」がありません。自分が信じられる自分がないのです。なので恐らく、自己肯定感がどん底なのではないでしょうか。そのため、誰かに何かを与えることで自己有用感を高めようとしてそれで自己肯定感も満たそうとしています。しかし、自己肯定感と自己有用感は明らかに異なるものであり、片方が満たされたとしても、もう片方も満たされるとは限りません。自己有用感とは自分以外の何かに価値基準を設けて成り立つ概念です。でもカオナシに欠けている「じぶん」とは自分以外の誰かにもらうものではありません。なのでカオナシはいつまで経っても満たされることがなく「寂しい」のです。

宮崎駿監督は、「カオナシは誰の心にも存在する」という言葉を残しています。私たちにも普段急に孤独を感じ、「誰にも必要とされていないんじゃないか」と考えて自分が分からなくなる怖さを感じる時があり、「死にたい」と言ったり自分や周りを傷つけたりと、荒れてしまうこともあるのだと思います。私もそうでした。

そういった時は、自分が今いる場所から離れてみるのも解決に繋がると思います。

カオナシは千尋に与え続けようとしますが、「いらない」「私が欲しいものは、あなたには絶対出せない。」と自分がしてきたことを真っ向から否定されました。その結果暴走し、油屋の従業員を飲み込んだり油屋中を暴れまわったりします。

あのあと千尋はカオナシに「おうちはどこなの?」と尋ねています。しかしカオナシには帰るべき「じぶん」などないためその問いに答えることができませんでした。根無草であるカオナシは千尋のいる油屋にしがみ付くしかなかったのです。ですが油屋とは①に書いたように「個」を消してしまう場所であるため、千尋は「あのひと油屋にいるからいけないの。あそこを出たほうがいいんだよ。」といってカオナシを外に連れ出したのだと思います。

カオナシは銭婆の元という「別の場所」で自身とゆっくり向き合い、アイデンティティを構築してゆくのだと考えられます。

※余談ですが、この映画の主題歌である『いつも何度でも』を銭婆のもとで「じぶん」を見つけることができたカオナシの回想として聴くと、すごく哲学的に思えてまた違った見方ができます…!



・母と子の対比


『千と千尋の神隠し』には印象的な二組の母子が登場します。「お母さんと千尋」、それから「湯婆婆と坊」です。

この2組はとても対照的であり、「お母さんと千尋」が親から離れない子供であるのに対して「湯婆婆と坊」は子供から離れない親を表現しているようにみえます。千尋は不思議な世界に迷い込む前、トンネルで母親の腕にしがみつきながら歩いていますし、湯婆婆は坊を溺愛しています。

千尋は急に親と離ればなれになり、家族に頼ることなくひとりで生活することを余儀なくされてしまいます。しかし千尋は頑張りました。周りの人に助けられながらも親のいない生活を乗り越えたのです。

湯婆婆は坊にべったりで同じように坊も湯婆婆に頼りきって生活している状態でしたが、そこに彼女の姉の銭婆(そっくり!)が登場します。坊は銭婆を自身の母親である湯婆婆と勘違いしてしまいました。その後銭婆は坊をネズミに、頭と呼ばれる中年男の生首のようなものを坊に変えてしまいます。坊の実の親である湯婆婆も銭婆の術に惑わされ、ネズミになった坊を見て「汚いネズミ」と気にも留めませんでした。カオナシが去った後、湯婆婆はハクに「まだわかりませんか?大切なものがすり変わったのに。」と言われようやく坊の不在に気がつくのです。

ここで注目すべきはハクに「大切なもの」と言われた際、湯婆婆は真っ先に自分の手元の金を見たことです。その後坊を見てやっと頭が姿を変えられていただけなのだと気づくのですが、あそこまで坊を溺愛していた湯婆婆でさえ、判断を迫られた時に子供ではなく金に目を向けました。湯婆婆さえも油屋という社会に呑み込まれ大切なものを見誤っているという非常にパンチのきいた皮肉です。

あのあと湯婆婆は火を吹いて取り乱すのですが、冷静に坊に対してどのような行動をとるべきなのか考え直すきっかけとなる出来事だったのでは、と考えることもできそうです。本質を見誤り坊を危険にさらしたために本当に大切な自分の子供を守るために何をすべきか考え直すということは湯婆婆のにとって「子離れ」の契機とも言えるでしょう。

一方でネズミに変えられた坊は湯婆婆に「汚いネズミ」と言われた時に悲しい顔をしますが次のカットで怒りの表情に変わっています。これがきっかけで坊は今までずっと頼っていた存在を失い、自分の判断で行動することになりました。その後の坊には千尋にも頼らず自分の足で歩いたり、糸車を回したりと我慢強い行動を見ることができます。油屋に戻った時も湯婆婆に成長した姿を見せて驚かせています。湯婆婆が思っていたよりずっと、坊は強い子だったのです。

千尋はそんな坊を間近で見ていました。親元を離れても頑張れるんだということを坊を通して客観視することができたのです。千尋は元の世界に戻るときのトンネルでも母親にしがみついていますが、トンネルの向こうの世界で経験したことが身についているはずなのですぐに変化は訪れなくても、自分は親離れできるのだと頭の奥の方でわかっていると思います。




③に続きます。


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