見出し画像

インド旅行・インドに根付くチップの謎

新聞屋が土手を降りたのに続き、私たちは足下に気をつけて後を追う。宿の前に着くと、デリーのナディさんと同じ様にドアを叩き始めた。宿の主人が見せてくれた部屋は、全体的に青く、小さな小窓に鉄格子がついた部屋だった。

静まりかえった宿の受付で、3日分の支払いと台帳記入を済ませると、部屋の鍵を渡された。空ちゃんと部屋に入ると、新聞屋も何故か一緒に部屋に入ってくる。そして、照れ臭さそうにチップをくれ、と言った。すっかり忘れていた私は『そうだ、インドとはそういう国だ』と疲弊しきった頭で気がついた。

空ちゃんが5ルピーを渡したが、新聞屋はその額に不満があるらしく何かを訴えながら部屋に居座り続けて、一向に帰る気配がない。新聞屋のその行動に耐え兼ねた私は、財布をあけ飛び込んできた一番小さい紙幣を取り出し、押し付けながら彼を押し出し、部屋のドアに鍵をかけた。とにかく、眠りたかった、というのが本音だった。

インドにはもともとチップの習慣は無かったらしいが、チップの習慣のある国の人が旅行する事で、その文化が根付いてしまったらしい。チップの文化がない日本人の私にとって、お金で何でも解決するという部分は非常に効率的な反面、理解に苦しむ習慣でもあった。

面白い事に、新聞屋は味をしめたようで、翌日から毎日私たちを訪ねてくる様になった。これは、私がチップに50ルピー紙幣を渡してしまった事による。この時の私の財布には、100ルピーと50ルピーの紙幣しか入っておらず、とにかく部屋から出て行って欲しかった私は、やむを得ず50ルピーを支払ってしまったのだった。

新聞屋を半ば強引に部屋から追い出すと、ようやく気が抜けた。シャワーを浴びようと蛇口をひねるが水しか出ない。冷え切った体に冷水を引っ掛ける気にはならず、私たちはそれぞれのベッドに横になった。私たちが部屋の電気を消してすぐに夜が明けた。朝日が入り始めると、部屋は徐々に明るくなり、他の部屋から人が出入りする音が聞こえる。結局、私は眠れずに、ただ横になっていただけだった。

しばらくすると空ちゃんが起き出し、レセプションにお湯を頼みに行った。すぐにバケツいっぱいのお湯が届く。そのお湯を使いながら体を洗っていた私はふと、日本のように蛇口をひねるだけでお湯が大量に使えることは、なんてありがたい事なのだろうと考えていた。

体が軽くなったような爽快感につつまれて、朝食を摂るために空ちゃんと宿の外へ出る。日差しが辺りを照らして、木々の緑が眩しいくらいに美しく、昨日見た漆黒の闇が嘘の様に思えた。暖かい風が、私の鬱々とした気分を一瞬で吹き飛ばす。

宿のすぐ隣に、小洒落た空間があった。壁にアーユルベーダ、ヨガ、食事ができると書いてある。私たちが門をくぐると、中から白い布を腰に巻き付けただけの白人男性が出てきた。彼は、ここのオーナーだと言う。私たちが食事をしたい、と伝えるとメニューを持ってきてくれ、インド人の女性を呼び「後は、僕の妻にお願いするといいよ」と出て行ってしまった。その建物は、床に座る為のラグやソファーが配置されたカフェ、インドの雑貨を売っているスペースの他、ヨガやアーユルベーダを施術するための部屋を持っていた。

私が体の異変に気がついたのは、そのカフェで空ちゃんと食事をしようとした時だった。私たちの目の前には、スパイスの効いたチャイとみずみずしいフルーツヨーグルトが並べられていた。デリーでブランチとしてとった食事以来、実に20時間ぶりの食事だった。チャイを一口含んで、私は戸惑った。お腹の空いている私の意思とは裏腹に、チャイが喉から先に流れていかない。

お腹は空いていた。喉も乾いている。それなのに、体が受け付けてくれない。水を飲む事も出来ない。私はこの体の異変に、ただ静かにショックを受けていた。

私は、子供の頃から食べる事が大好きで、好き嫌いも特になく、割と何でも美味しく食べる事が出来た。それは大人になってからも変わらず、話題はいつも食べ物の事になるくらい、私はこの世界の食べ物に興味があった。仕事も食事に関わることができるようにレストランを選んでいたくらいだ。そして食べ物を残す事が大嫌いだった私にとって、完食が一つの信念のようになっていた。

日が高くなって、ジリジリと照りつける太陽が気温を上げていく。空ちゃんが「暑いねー」と言いながら、汗を拭いた時に私は自分の体の異変にさらに気がつく。汗が出ないのである。考えてみると、デリーにいた時からトイレにも行っていない。まるで、体が内側からシャットアウトをかけた様に、私の体は完全に閉じてしまっていた。

今でも、なぜそんな状態になってしまったのかは定かではないが、おそらく精神的なショックが重なった事が原因だと思う。デリー到着からリシケシュまでの衝撃的な移動は、私が思う以上に精神的ダメージを与えていたらしかった。

空ちゃんが、何にも手をつけない私にどうしたのか、と聞いてきたが事を大きくしたくなかった私は、ただ食べられないんだ、とだけ応えた。私たちはその日を1日、その小洒落たカフェのソファーでゆるゆると過ごした。他にお客さんはおらず、インド人の奥さんも物静かな方で私たちを放っておいてくれた。

せっかくなので、アーユルベーダのマッサージをお願いする事にした。施術するのは奥さんで、一人ずつ交代でマッサージを受けることになった。奥さんの手が荒れていて、オイルを塗る度に気になったが、この乾燥している国では仕方がないのだろう、と思った。私が日本で読んだ本の中に、インドのサドゥと呼ばれるヨガの修行者の足についての記述を思い出していた。彼らの足の皮は、厚くなりひび割れるているそうだ。それほどにインドとは乾燥する国らしい。

明日は、空ちゃんと2人でヨガのレッスンも申し込んだ。ヨガは、奥さんではなく先生が出張してくれるらしい。夕方になって、空ちゃんが夕ご飯を食べるのを眺めながら、私は暖かい風を感じて穏やかな気持ちになり始めていた。そして、今夜は少し眠れそうだ、と何となく思っていた。


読んでくださり、ありがとうございます。楽しんでもらえたなら、冥利につきます!喜んでもらえる作品をつくるために、日々精進しています(*^^*)今日も良い一日を〜♪