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「なぜ働かなければならないのか」 - その真意

はじめに

「なぜ働かなければならないのか」この質問、インターネットで検索するとそれなりに回答があるのだが、どれも直接的な、悪く言えば表面的な回答になっている気がしてならない。つまり、回答者が質問者の意図を汲み取れず、質問者が本当に聞きたい答えを回答者が返せていないのである。(裏を返せば、そもそも質問者の聞き方が悪いということにもなるが。)

私が考える「質問者の本当の問い」と「それに対する返答」は後半に回すとして、まずは「表面的な回答」について考察したい。以下に、インターネット上によくある代表的な回答を示す。

「表面的な回答」への考察

問:「なぜ働かなければならないのか」

1. 生きるためにはお金が必要で、そのお金を稼ぎたいから
2. 生きがい(仕事の達成感、人生の目標など)を感じたいから
3. 社会に貢献したいから
4. 自身の能力を発揮したいから
5. 「働かなければならない」などということはない
(状況が許すなら働かなくても構わない。働く義務は無い)

まず、「なぜ働かなければならないのか」を5W1Hに書き換えるなら、「私が働く必要がある理由は何か」になると思う。「必要性」を問うている訳だから、2,3,4番は的外れだろう。2,3,4番の答えが導かれるためには、働く必要がないにもかかわらず働いている人に対して「なぜ働いているんですか」または「なぜ働きたいんですか」という問いにならなければならない。もしくは、2,3,4番が単なる希望ではなく、「必要」である人に限られるだろう。つまり、働く理由が以下のような場合であるが、あまり現実的ではない。

2`. (働くことによって)*生きがいを感じる必要があるから
3`. (働くことによって)*社会に貢献する必要があるから
4`. (働くことによって)*自身の能力を発揮する必要があるから

*各回答は「働く」ことに対する答えなので、冒頭に「(働くことによって)」を挿入した。ここで3回にわたって挿入して強調した理由は、皆それぞれの人生において生きがい等を感じる必要性はあるだろうが、それが「働く」ことによってのみ感じられるものではないからである。つまり、働くこと以外によっても、生きがいは感じられるし、社会にも貢献できるし、自身の能力を発揮することも可能であって、どうしても「働くことによって」ではないといけない必然性が大部分の人にとっては乏しいのではないかと考えているからである。

次に1,5番を考察すると、これらは一見すると真逆のことを言っているようにも思えるが、その実は表裏一体、つまり同じことを言っていると筆者はとらえている。1,5番を結合すると「生きるためにはお金が必要で、そのお金を稼ぐためには働く必要があるが、既にお金を自身または家族などが十分に持っていて、それを使うことが許される状況ならば働く必要はない」となる。まとめると、「私が働く必要がある理由は何か」に対する表面的な回答としては、1番または1,5番の結合が正答だと考える。5番単体では正答にはならないと考える理由は、大多数の人は1番の例外足り得ないからである。つまり、一生分のお金が既に十分にある人はほんの一握りであり、5番は1番を補足する程度の位置付けにしかならないと考えている。

質問者の本当の問い

さて「なぜ働かなければならないのか」、「私が働く必要がある理由は何か」と問うている質問者の「真意」は何だろうか。前半部分で長々と考察したが、そもそも「生きるためにはお金が必要で、そのお金を稼ぐためには働く必要がある」なんてことは小学生でも知っている事実である。質問者の知的水準にも依るため一概には言えないが、恐らく質問者は高校生以上の若年層だと私は思っているため、大半の質問者らは「なぜ働かなければならないのか」に対する表面的な回答は既に持っていると私は考えている。

では、なぜ彼らは既知の質問をしているのだろうか。既に答えを知っている質問を敢えてする理由は大まかに以下の5つに分けられる。

一. 自分の答えに自信がなく、その答えを確認するため
二. 相手に念押しするため
三. 自分の答えに共感してほしいため
四. 自分の答えとは異なる答え、またはより良い答えを知りたいため
五. 疑問文で何かを訴求したいため

私は本件に関して既知の質問をする主な理由は五番だと考えている。補足的な意味合いでは四番も該当すると思うので、順を追って説明する。

まず、五番の例を挙げると、「日本の司法制度はこのままでいいのか」や「どうして私が兄の面倒を見ないといけないのか」というのはいずれも疑問文の体をとってはいるものの、明らかに疑問ではなく訴えである。「日本の司法制度はこのままではいけない」であり、「私は兄の面倒を見たくない」という訴えであり、意見の表明である。私は、この文法的な用法が「なぜ働かなければならないのか」にも意識的または無意識のうちに使われているのではないかと強く疑っている。または、単に「私は働きたくない」と主張すると社会からのあまりに強い反発が懸念されるため、言葉を濁して「なぜ働かなければならないのか」と訴えかけているのではないだろうか。もしくは、「私は働きたくないのに、なぜ働かなければならないのか」が単純に短くなって「なぜ働かなければならないのか」になったと考えても自然である。したがって、私が考える「なぜ働かなければならないのか」という問いの真意は、「私は働きたくない」である。

四番について述べると、「私は働きたくない」は感情であり、「働かなければならない」は現実、または現実を直視する理性である。感情では「働きたくない」と思っていて、理性では「働かなければならない」と分かっている場合、多くの人は理性を優先させて働くのだが、感情に反することを行うのは精神的苦痛を伴う。この精神的苦痛を緩和するために、四番「自分の答えとは異なる答え、またはより良い答え」を知り、「働きたくない」という感情を弱めるために「なぜ働かなければならないのか」という問いを投げていると考えることができる。ここで、前半の「表面的な回答」にて紹介した2,3,4番を思い出して頂きたい。働く必要性への問いという観点から2,3,4番は的外れであると述べたが、ここに来て2,3,4番の効用が垣間見える。つまり、2,3,4番は働く本人から見たときの労働の必要性との関連は希薄だが、働かざるを得ない状況に陥った場合に、「働きたくない」という感情を慰めてくれるものには十分なり得る。文章にすると「私は嫌々働いてはいるが、働くことによって得られる生きがいもあるし、社会に貢献することで周囲からの評価も高まるし、自身の能力も活かせるのだから、働くこともそれほど悪いものではない」あたりになるだろうか。

質問者の本当の問いへの返答

質問者の真意が「私は働きたくないのに、なぜ働かなければならないのか」であれば、それに対する直接的で、かつ質問者に寄り添った回答は以下のようになるだろう。

「質問者がこうした問いを行った理由は、ご自身が働きたくないとお考えだからなのだと勝手ながら思いました。あなたが働きたくない気持ちは十分に理解できます。しかし、我々のうちほとんどは働いてお金を稼ぐことでしか生きていく術がないため、働かざるを得ません。少しでも良い待遇・人間関係の職場であなたが働けることを願っています。」

ここまで書いてみて、あまり回答がうまくない気がしてきたが、ご容赦願いたい。もっと良い回答ができる方はコメント欄へ投稿ください。

さて、上記の私の回答だが、太字で示した「働く必要性」という部分にだけ着目するなら、言っていることは結局のところ、前半の「表面的な回答」で示した1番「生きるためにはお金が必要で、そのお金を稼ぎたいから」と同じ内容である。つまり、私の回答は、1番の内容に質問者本人が働きたくないと思っているであろうという要素を加味したに過ぎない。

ここまでの回答はすべて直接的な回答、すなわち質問に直球で答えようとするものであったが、私は反出生主義者*なので、蛇足を恐れずにもう一捻りしたい。反出生主義の観点を加えると以下のような回答になるだろう。(*反出生主義とは、子どもを産むことは非道徳的であるとする哲学的立場。)

「質問者がこうした問いを行った理由は、ご自身が働きたくないとお考えだからなのだと勝手ながら思いました。あなたが働きたくない気持ちは十分に理解できます。しかし、我々のうちほとんどは働いてお金を稼ぐことでしか生きていく術がないため、働かざるを得ません。少しでも良い待遇・人間関係の職場であなたが働けることを願っています。
一方、あなたが働きたくないにもかかわらず働かざるを得ない状況に陥っている原因は、成人したら働かざるを得ない世の中であると知っていたにもかかわらずこの世に生を受けたからです。親を恨めとも恨むなとも言いません。しかし、あなたがこの世に生を受けたことを働かざるを得ないという観点から理不尽だと思うなら、せめてあなたの子どもには同じ思いをさせないように、子どもを産まないことが子ども本人のためになるのではないでしょうか。もちろん、それによってあなたが直接的に救われる訳ではありません。しかし、この理不尽の連鎖を自分の代で断ち切ったという誇りを糧にして、これから働いて行かれることがよろしいのではないかと思います。」

これは私自身が回答者なのだから当然なのだが、私がこの回答を受けたなら「しょうがない、明日も頑張ろうか」という気分になると思う。

補足

3点補足したい。
 1つ目に、本投稿では「生きるためにはお金が必要で、そのお金を稼ぐためには働く必要がある」という理由で働く必要性について説明してきた。本文では説明しなかったが、この働く必要性には、「生きたい」または「人並みの生活をしたい」という欲求を人々が持っているということが前提となっている。したがって、「生きたい」と思っていない人や、「人並みの生活をしたい」と思っていない人、具体的には生活保護受給の条件と意思が共に備わっている人など、の場合には「生きるためにはお金が必要で、そのお金を稼ぐためには働く必要がある」という枠からは外れてしまう。

 2つ目に、「筆者が何を述べているか」と「筆者がどのような人物であるか」ということは本来分けて考えるべき事柄であり、相互に独立しているべきである。言い換えるなら、「その人が立派な人なのか」と「その人の言っている内容は正しいのか」は別問題である。犯罪者や未就学児でも正しいことを言うことはあるし、大学教授や裁判官でも間違うことはある。当然、誰が言っているのかによってその主張の説得力に強弱があるのは否めない。やや極端な例だが、死刑囚が死刑廃止を訴えるのと、殺人事件の被害者遺族が死刑廃止を訴えるのとでは文脈も説得力もまったく異なるが、純粋に死刑廃止論に焦点を当てるなら、両者とも誤りであるか、両者とも正しいかしかない。
 しかし、如何せん人間は(自戒の念も込めて言うが)そもそも誰が言っているのかに注目しがちであり、話の内容を精査する前から偏見を持ってしまっている。本投稿の話も、もし私が働いたことのない学生や専業主ふ、ニートならば、そもそも見向きされるのだろうかと、ふと思ってしまう自分がいる。嘆かわしい現状であり、それを正していくのが理想ではあるが、現実に偏見がある以上その現実に対応するのも一種の要請だと思うので、自身のことについても記したい。
 私は入社5年目の社会人であるが、このような投稿をしているにもかかわらず会社に対して特別な不満は持っていない。同世代と比較して仕事内容が厳しいとは思わないし、給与水準は高いし、人間関係にも問題はなく、したがって転職は希望していない。私は他者と比較して恵まれていると客観的に見ている。しかし、他者より恵まれてはいても別に会社員が楽な訳ではない。もはや当たり前のことになっているが、平日は雨の日も、暑い日も、毎日8時間働き、昼休みや通勤のように事実上自由が利かない時間も毎日4時間ある。時には残業だってある。これを40年、定年延長で下手をすれば50年も続けるというのは、いくら仕事内容や待遇、人間関係の面で不満がないとは言え、そもそもかなりの苦行ではないだろうか。しかも私には(悪い意味ではないが)転職の選択肢がない。つまり、状況がこれ以上改善することはないのだ。こんなことを言うと、「贅沢だ!」「甘えるな!」という誹りを受けてしまいそうだが、ならば「そんな甘えが許されない世界に、どうして愛おしいはずの子どもを連れてこられるのだろうか」と私は思ってしまう。

 3つ目に、ここまで読んでくださった方の中にはお気づきの方もいらっしゃると思うが、この投稿は私の疑問「なぜ働かなければならないのか」に対する私なりの答えである。すなわち自問自答だ。「なぜ働かなければならないのか」と考える背景が多岐にまでわたるとはあまり思わないが、人によってある程度の違いがあるのは確かだろう。なので、少なくとも私と同様の理由から表題の疑問を感じた人にとって、この投稿が助けになれば幸いである。

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