クリーニング臨時休業

 杉並区から解放されていたことを、今突然知った。ずっと囚われていたのに、いつのまに?存在を認識することがなくなったからか。それって、死と何が違うんだろう。きっと彼は彼の人生で生き続けるんだろうけど、私の人生と交わることはもうない、多分。それは、私の中での彼の死を意味する。死ぬ、というのは、忘れられることと同義じゃあないかな。私が忘れない限り、私の人生の中でみんな生き続ける。安倍晋三だってロリちゃんだって、私が忘れてないから、私の中で生きてる。生きてる、とは違うな。死んでない、が正しい。私が思い出すことさえできれば。言い換えたら、生きてる人でも、私の中で生きてない、ことにできる。
 もう1人、ずっと囚われている人がいて、忘れかけてたのに、友達にそういえばあの子…と突然名前を出されてまた蘇ってしまった執着。早く私の中で死んでくれないかなって願ってる。その子の人生では幸せに生きて欲しいけど。
 何かに執着することは、美しくも見苦しい。昔大好きだった人、今でも大好きで私の中で生きている人に、「何かに泣くほど依存できることが羨ましい」と言われた。盲目に好きになったり、1人の人間のことで一喜一憂したりしてみたい、と。私は、幸せだけど辛いよ、と答えたと思う。一途な恋心と言えば聞こえは良いが、それは単なる汚い執着と下心だ。それを経験したことがない人には、美しく見えるのだろうか。私はむしろ、それしか経験したことがない。
 過去に3人、恋愛感情を抱いた人がいる。あとは抱きそうになった人が1人。その4人を、ずっと忘れられずにいた。でも、ようやく1人から解放された。もう1人は、忘れたいわけじゃなくて、心から、幸せになって欲しいなって思えるようになった。素敵なnoteを読んだからだよ。私が生きてない人生で幸せになって欲しい。私もあなたが生きてない人生で幸せになる。もう1人は、ずっと忘れられないし、忘れたくないし、私の中で生きていて欲しい人。初恋の人。最後の一人は、私の中で早く死んで欲しい人。友達への執着は薄い。嫉妬心は他の人よりも強いと思うけど、だからといっていなくなってしまったときにそこまで引き摺らないと思う。私が恋愛感情を抱くかどうかは、その人に執着しているかどうかが肝になるんだろうな。例えば牛乳に突然ブロックされたとしても、1週間くらい悲しんだらケロッとしている気がする。牛乳に恋愛感情を抱いていたら、別垢から牛乳のアカウントを何回も覗きにいったり、インスタのストーリーを別垢から見に行ったりするんだと思う。大事に思う気持ちと執着心はまた別物だから。
 とにかく、私は今日1つの執着心を手放すことができて自由の翼って感じ。ハッピーな気持ちで一日を終えることができた。このまま余韻に浸って眠りにつきたいけど、なんとなく眠れないから映画でも観ることにする。それじゃあおやすみ


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