十二国記『白銀の墟 玄の月』感想
1年半ほど前に書いた感想がサルベージできたので、転記します。
前作を読み終えてから、ここまで生きてきた甲斐があった……っていうくらい面白かったです!
まさしく戴に生きる人々の物語だと思いました。希望を失わず、この国に生きる人々のために耐えがたきを耐える辛抱強さには、感嘆を通り越して尊敬の念を禁じ得ませんでした。
1巻、2巻の耐え忍びつつ一縷の望みを探し続ける時間の長さがあってこそ、希望が繋がり始める後半の高揚があるのだとわかってはいても、とにかく雌伏のときが長くてつらかったです。なぜ阿選に泰麒がペコペコしなきゃならないんだろうかと悔しくなったときもありました。
そして、後半に至ってもあまりの犠牲の多さに、読者として何度も心が折れそうになりました。嘘だと言ってほしいくらい、心ある人々が死んでいくのがつらかったです。「もう耐えられない」とそのたびに思うけれど、それを辛抱して生き続ける戴の人々の強さ、生命力に私まで心強さをもらえるような気がしました。
阿選が何を思って大逆を犯したのかは私にとって長い間の疑問でしたが、彼の思考が描写されてからは、思っていた以上シンプルで驚かされました。
阿選の人物評に関してはさまざまなものがありますが、私としては軍事はともかく少なくとも内政には向かないように感じました。個人的にはやはり案作による評価がとくに興味深いです。阿選の麾下たちによる評価の高さとは違って冷徹ですね。
阿選の麾下たちは本当に気の毒でした。彼らのことを思うと阿選に、何故、と私まで言いたくなってしまいます。
阿選の麾下たちは罪に踏み込む前に主を止めたかった、あるいはどうしても仕方のないことなのだと納得させてほしかったと思っていましたね。それに対して阿選が、事前に打ち明けて「説得されたくなかった」と書いてあったところを読んだときは、思わず「甘えるな」と言ってしまいたくなりました。
読みながら、阿選に対しては「人が死んでいるんですよ!」と何度も何度も思いました。戴の人々の懸命さを見たら、思わずにいられませんでした。
自負心(自尊心)とは、阿選の身を破滅させるのみならず、こんなに多くの人を巻き込むほど恐ろしいものなのか……と思いました。
阿選を見ると、中島敦の『山月記』にある「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」という言葉が何度も想起されました。彼こそは豺虎になってしまった人そのものに思えて、なぜそんなに他者と自分を引き比べずにいられないのだろうと、心のどこかで憐れでした。人の自負心はこんなにも満たされないものかと。
すばらしい才覚、知性、恵まれた身体能力、功績にふさわしい身分、謀反を犯したあとでもなお阿選こそ王にふさわしいとまで慕ってくれる部下たちの信頼や人望、それだけのものすべてを裏切らずにいられないほどのもの。それらをすべて無意味にして、狂気を撒き散らす源泉がとても恐ろしかったです。
琅燦は、阿選に対して驍宗は「どちらのほうがよりましな人間か」を競っていたと語りましたが、これを突き詰めて、より善であり優であろうとするなら、最終的には人ではない域に達するしかないでしょう。
阿選は、けっしてそうなれない自分に絶望したのでしょうか。
私は、人間は所詮誰しも万能でも善良でもないのだから、できることを積み重ねて生きていくことしかできないんじゃないかと思いました。そうして日々を繋いでいる戴の人々をとても美しく感じました。登場人物の多い今作ですが、立場や身分を越えてみんなが戴のために懸命に働く姿が心に焼き付きました。
私、じつは実際に本作を読むまでは、泰麒や驍宗が大活躍してスカッと国を救ってくれるんじゃないかとどこかで期待していたかもしれません。
でも、そういう話ではありませんでした。驍宗も泰麒ももちろん必要不可欠な、かけがえのない存在ですが、戴を救うのは戴の人々なんですね。
そこが感動的で、どの固有の場面よりも無数の人々の祈りが立ち上ってくるような物語自体に胸を打たれっぱなしでした。
誰かひとりの英雄や王が、あるいは麒麟が超常の力でなんとかするのではなくて、人の心が狂わせた世の中を人々の平安を願う心が正していくなら、戴はきっと再生すると思えました。
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