家賃で死ぬ

飯倉片町の交差点はちょうど赤信号に変わり、運悪く立ち止まることになった。眼前に架かる首都高を見上げた視界の端、玉虫色の高層ビルが紺に澄む秋空をまっすぐに画しているのが見える。ROPPONGIの文字がなめらかに波打つ。
先程後にしたばかりの、5才児の掌よりも小さいチョコレートのパン1つが560円するブラッスリーからただよう甘くこうばしい匂いが、冷たい夜風に乗って追いかけてきては鼻先を通り過ぎた。右手に提げるビニール袋は軽い。突然の出費に気分は重い。

頭が悪いから貧乏になるのではなく、貧困こそが人間の知能低下を引き起こすという。「何かを心配し続ける」というのは非常にエネルギーを使う作業であって、"逼迫した家計のやりくり"は趣味や仕事、次のライブ、友達の結婚祝いのプレゼント選び、そういった日々のささやかな楽しみ美しさきらめきの機微を片足で踏みつけ、タスクマネージャーの上位で真っ赤に光ることになる。そうなれば自然と行動に割けるリソースは限られてしまい、判断力を失い、色の名前を忘れ、イングルウッドの街角でうずくまる老犬のように欲求の選択肢を奪われてしまう。
麻布と六本木を股にかける外苑東通りを、モンクレールを着た犬の後ろを歩きながら、ここは私の属していない世界だとはっきり認識する。3年目のセーター、1500円のスキニー、切り詰めてようやく買ったZARAのコートが私の装備。生活は止むことなく私の上を流れていく。用水路に詰まる落ち葉の積み重なりや泥の堆積がいつしか清冽な水に押し流されていくように、何度も重なった男を手放した痛みも、上司からのセクハラで空いた胃の穴も、透明で強い時間の流れが、ー「癒やす」というよりも「片付ける」というような手際の良さで、痕跡を拭い去っていく。結局手元に残るのは私の小さな世界に置かれた使い古した服と家具だけ。そろそろ入れ替えようか、と処分を検討すれど、コンビニで手に入る粗大ゴミのシールでさえ今の私には買う余裕がない。25歳ってもっと自由で大人で、財布に厚みがあると思ってた。いやキャッシュレス化。

トイレだけを借りるのに躊躇して無理やり買ったチョコレートパンを紙袋から少し出して、ざらざらしたハードな小麦肌に歯を立てる。香ばしくて、甘すぎなくて、ナッツが入っていた。バターが効いているがちっとも重くない。ああこれが資本主義。六本木駅が近づくにつれ、街の様相は騒音と猥雑を増していくものの、甘皮で包まれた野蛮さも私のものじゃない。

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