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歩いた日記 2021.10.5.

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11:10

書類のスキャンをとりに、コピー機があるホームセンターへ向かった。毎回この道はカラスがさわがしい。いつも怒り気味なんだよなあ。この時間は、幼稚園児のお散歩タイムだったこともあってか、いつも以上に縄張ってた気がする。「謹んでお通り申し上げます…」と心でとなえて、そそくさと進んだ。

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11:17

スキャンしたデータを保存するUSBもスマホも家に忘れた。がっくし。せめて楽しい散歩をして気を晴らそうと、歩道の縁石のうえを歩いてみる。大人になっても、この遊びはハラハラして楽しいんだよなあ。

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11:43

書類の欄に職業を記入するところがあった。これまで3回くらい書いたけど、「無職」という肩書きにはドキッとするわたし。(わたしがその道を選んだ。)

ドラマ『カルテット』第一話の、唐揚げとレモンのシーンを思い出す。

「レモン、ありますね」

「レモン、ありますよ」

「この瞬間やだね~笑」と同居人のけいやに思わず話しかけてしまうけど、これをただ、ありのままに受け止めることが、わたしや社会に生きる人々を認めるということなのだろうな。


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17:43

テアトル新宿で、『君は永遠にそいつらより若い』という映画をみた。大学生の純粋で自然なやりとりがすっと入ってきて、彼女たちが送る日々がいとおしかった。だからこそ、彼女たちの秘めた思いや、受け入れがたい現実に、はっとさせられた。

新宿の街をぼんやり感じながら、映画の余韻にひたる。ポケットティッシュを配る男性が目に入った。たいがいは、ぐいっと一歩前に出てティッシュを渡すものだけど、彼は道の端に突っ立ったまま、肘をまげて手首を小さく揺らすだけだった。受け取る人なんかいないだろと、やけくそで無関心なようにみえた。

映画を吸収したばかりのわたしは、 わたしがティッシュを受け取ることで、なにか彼に影響できることがあるんじゃないか? と思った。けれど、男性との距離は絶妙に離れていた。自分からそちらへ出向く気持ちは湧いてこず、そのままスルーした。

このまま違和感から目をそらしてよいのだろうか?やっぱり受け止ろうか。。。そう思って、来た道を戻る。男性まであと2mくらいのところまできた。まだ戸惑いがあって、とりあえず地図を眺めるふりをする。

男性が着ていたはっぴの裏側にプリントされた文字をスマホで検索してみる。どうやら出会い系の宣伝らしい。結局わたしは、ティッシュを受け取らないことにした。

受け取ったあとと、受け取らなかったあと。どちらを選んだほうが、わたしは、彼は、救われたのだろう? 

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19:02

代々木駅あたりを歩いていると、アジア系の女性に声をかけられた。「お金に困ってるんです」と、デニムのパスケースに入れたメモをみせながら説明してくれた。お菓子2個と引き換えに1,000円を手渡した。ゴディバのチョコとビスケットだった。

彼女は33歳で、通っていた大学をやめなければならないくらいお金がなくなったそう。いまはアルバイトで生活をきりもりしているらしい。(あまりはっきりと覚えていないので、正確な事実ではないと思う。)

軽く談笑をしたのち、「がんばってください」と彼女から言葉をもらった。「がんばりましょう」と返した。手を振りながらわたしは歩きだした。

彼女は「お姉さん、やさしそう」と微笑んでくれた。わたしからみても、彼女はとてもやさしそうだった。

声をかけてくれて、どうもありがとう。きっとわたしは、生きようとするものを見過ごして、これからも生きてしまうだろうから。

信号の踏切を渡りながら、ゴディバのチョコを1つ食べた。甘すぎるくらい、甘かった。

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19:37

がたいはいいけど優しい顔の男性が、歩行者を呼び止めた。警備員さんなのか、男性の手には赤い棒がにぎられていて、オレンジのラフなTシャツの裏には「来ちゃった!」と書いてある。歩行者に対するメッセージにしてはダイレクトすぎやしないか?? そもそもTシャツで警備ってゆるすぎないか??

事情を説明したけどうまくいかず、歩行者が男性の横を通りすぎる。「突破されました!」と、男性は無線機に呼びかけた。歩行者を追いかけることはなく、もとの警備に戻った。警備ってそんなあっさり突破されていいものなんだっけ?? 

すべてが謎すぎるので、男性が立つ道の奥をみたら、どうやらなにかの撮影をしているようだった。

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19:39

夜の公園とタバコのほのかなにおいって、合うんだなあ。

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20:00

足の疲れを感じて、バス停前のベンチに座る。背後から、ガサガサと音が聞こえてきた。ゴミ袋をたくさん抱えたおじさんが、ゆっくりと歩いていく。おじさんに導かれるように、わたしは立ち上がった。

おじさんは、左端の地面をじっとみつめたあと、右端のガードレールの下をじっとみつめる。ふらりふらりと、動作を繰り返す。

わたしは、おじさんと歩調をあわせて、間隔を少しあけて、となりをゆっくりと歩く。

アジア人の女性にもらったお菓子を取り出してはしまいを繰り返す。

ドキドキする鼓動に「大丈夫だと思う」と語りかけながら、おじさんに声をかけた。

「すみません、これいりますか?」

おじさんは、わたしが話しかけていることに気がついて立ち止まる。

「ビスケットです」

わたしがそういうと、おじさんはゴミ袋をその場に置いて、ビスケットを受け取った。

わたしの目をみて、無表情を保ちながら、頭をこくっとした。わたしもこくっとお辞儀して、そそくさと去っていった。

まだ胸がバクバクする。ハアハアとゆっくり大きく呼吸をする。

おじさんから、「ありがとう」と言われなくてよかったなと思った。これは善意というよりは、わたしが一方的にしたことだから。

どちらかというと、わたしがおじさんに救われたのだと思う。ティッシュ配りのお兄さんの時にも感じたのだけど、わたしのなかには、「何もつながりができてない人に話かけることが怖い」という気持ちがある。この恐怖感は、わたしの22年間の人生での経験とか、誰かの人生の経験から抽出された考え方(似た言葉であらわすと「世間」なのかな)とかから生まれたのだと思う。

まだこの気持ちはわたしのなかにいるけれど、おじさんのおかげで、その気持ちを少し、外に出してやれた感じがした。怖くないかもしれない、大丈夫かもしれないということを実感できた。わたしのなかにまだまだ誤解があるのだなと反省した。

おじさんは、わたしの救われたいきもちを掬ってくれたんだ。そんなおじさんに、せめてちゃんと「さようなら」とあいさつできたらよかったのにな。

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(2021.10.12.追記) おじさんにありがとうと言われなくてよかったと思ったけれど、あとからちょっと違うかもと思った。

最近、わたしは約8時間半、東京の中野区から千葉県の市川市まで、歩き続けてみたことがある。6時間経過したあたりで、だいぶ足がパンパンなのにまだ千葉にも入ってない。そんな状態のなか、横断歩道で車が道をゆずってくれた。いつもわたしなら深めにお辞儀をして、ささっと渡る。けどその時は歩くことに必死で、たぶん真顔で、こくっとしたかもわからないお辞儀で、自分のペースで通りすぎた。

わたしの経験とは比べものにはならないかもしれないけど、もしかしたらおじさんも、こんな感覚だったのかもしれないなと思った。目の前で起こっていることを認知して反応する以前に、自分のいのちをつないでいたのかもしれないなあと。

善意や、与える/与えられるではない関係をおじさんと結べた気がしたことがうれしかったことに変わりはない。けど、何かすることには感謝という対価がつきものだという価値観が、わたしのなかでぬぐいきれていないことに気がついた。



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