BGMとしての地の文

ばっくぐらうんどみゅーじっく。

頭の中でずっと何かが流れている。音楽だったり、ただの言葉だったりする。
ひとりごとみたいだけど、自分が喋っているわけじゃない。そういうときもあるけど、大抵は他人(友達とか、好きなキャラとか、全く知らない誰かとか)が喋っている。あるいは私が喋らせている。間接的ひとりごと。

音楽もなく、誰もしゃべらないときもある。このときも、私の脳内は無音なわけじゃない。いや、無音だけど。でも、うるさい。小説の地の文みたいなのが流れてくる。

そういうときに私がピザを食べたい!って思ったら、私の脳内においては
ピザを食べたい!ではなく
ピザを食べたいという考えが浮かびあった
になる。みたいな?違うな。わからない、難しい。

地の文って言っても、ずっと純文学みたいな堅苦しさがあるわけじゃなくて、もっと単純にウケる!やば!ってときもある。伝われ。



 それで、世の中の人たちはあんまりこーいうのがないらしい。頭の中がもっと静かだって見たことがある。でもそれが不思議でたまらない。

私の気持ちは、上述したみたいに無音の音として脳内に響く。それで私は自分の考えを把握する。もちろん、すごくイライラしたときとかは言葉にならないときもあるけど、大抵はなにかしらぼんやりした感情が先にあって、それが頭の中で音(言葉)になって、そこで感情が明確な形を持つ。
上手くいえないけど、私の中では明確な感情(喜怒哀楽じゃなくて、もっと細分化された)は言葉になって初めてわかるものなのだ。

それなのに、世の中の人は気持ちが音にならないらしい。すごくイライラしたとき以外も。常に。一体どうやって自分の気持ちを把握しているんだろう。例えば今、悲しいことはわかっても、どんなふうに悲しいのか、言葉なしでどうやって理解するのか。

胸がキュッとなる悲しみと、吐き気がするような悲しみなら、身体の反応の差異で区別できるかも知らない。
じゃあ、春の小雨みたいなぼんやりした悲しみと、冬の豪雨みたいなぐしゃぐしゃの悲しみとなら?言葉以外でどうやって表現され区別されるのかわからない。



私は言葉以外の表現方法をしらない。脳内が静かな人がいたら、教えてほしい。どうやって自分を把握してるのか。言葉なく感情は形を保てるのか。ねむい。



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