他者からの評価

この前友人の愚痴を聞いた。

その内容が、今流行りのinstagram(自分の気にいった写真を複数枚投稿できるSNS)に友人の写真をを載せたところ「かわいい!」とメッセージをいくつかもらったということだった。

そして、私の友人の写真もその友人のアカウントに投稿させてもらったのだそうが何もメッセージが来なかった。と、悲しんでいた。

友人の投稿した写真を私は拝見したが素直にとても綺麗な子だと思った。しかしだからと言って私の友人が落ち込む必要性は全くないとも思う。

そして、友人は複数枚自分の写真を私に見せてきて「かわいいでしょ?ねぇかわいいよね?」と圧をかけてきた。

友人は嫉妬していたのだ。私は友人に対してこの子は綺麗だがあなたは愛嬌がある。違った魅力があると率直な意見を述べた。

それで満足したのか、後からは他愛もない会話をして終わった。

私の友人がもしinstagramでかわいいと多くのメッセージを貰っていたらこうはならなかったのであろう。しかし、他者にかわいいと肯定されなかったから私にそれを求めてきたのだろう。

昔から人間は承認欲求を満たすためにSNSの海に自身のアピールを撒いてきた。私がこの文章を書いているのもその一つの表れなのかもしれない。

しかし、現代においてそれは悪化してきていると私は感じる。自撮りをSNSに投稿し他者に褒められ承認欲求を得るならまだしも、自己肯定感を他者によって満たしている人間は危険だと思う。

小学生がテストを頑張る理由は親に褒められるためが理想ではある。しかし、現実はそうもいかず、褒美をもらうことにシフトしている。ここで頭に入れておいて欲しいのは自身のためにテストを頑張っているわけではないことだ。小学校1年生の時から成績や将来を気にして、テストに励む生徒はまずいないだろう。

ましてや幼稚園、保育園などはどうだろうか。運動会のダンスは自身の体力向上、お絵描きは美術センス向上のために行っただろうか。

答えはNOだ。全て先生に言われ行い、親に披露し褒められ喜んだのではないだろうか。また、喜ばれなかったとしてもそれにより悲しんでだのではないでだろうか。

全ては親に「偉いね、よく頑張ったね。」と、言われるために努力をしていたのだ。そのことによって自分は偉いんだ。と、自身を肯定する。正に何かを行いそれを認められることによって自己肯定感を高めていたのだ。

しかし、徐々に人間は自立していく。

自分で進路を決め、やがては独り立ちをする。

そこでそばに親のように自身を肯定してくれる他者がいなかったらどうするか。

自分自身で自分を肯定するしか術がないだろう。

むしろそうであってなければならないのだがこの世に自分自身を肯定して自身の承認欲求を満たせている人間は一体何人いるのだろうか。

人は人の役に立つために生まれ、他者から必要とされることによって自身の存在意義を見出していく。その中で感謝されることにより自身の存在への肯定を感じる。

自分で文章を書く連ねていてそれが真っ当な生き方だと感じてきてしまった。

しかし、私の意見は悲しきかな。真逆である。

他者からの賞賛でしか自身の肯定感を得られない人間は死ぬ。

他人は所詮他人であって、その人物も他者からの賞賛を求めている可能性がある。また、相手の偉いねという言葉に振り回されその言葉が欲しいがためだけに無理に努力してしまったりもする。

今回の私の友人のように他者にかわいいと言われないと自身に自信が持てなくなってしまい落ち込む。また、本当に思ってもいない口から出まかせの言葉を信頼してしまい騙されてしまうケースも少なくはないだろう。

できるだけ自分のことは自分で認めてあげたい。頑張ったら他人に褒められるまで頑張ったアピールをするのではなくてまず最初に自分で自分を褒めてあげたい。

他人に褒められるまでのアピールですでに疲れてしまうし、もしかしたら取り合ってくれないかもしれない。100%返ってこないものに見返りを求めるのは愚かだ。

自分で自分を認められるようにまずは努力すべきだ。


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