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わたし × 仕事 ~追求 編~

このことについては、noteを始めた頃からいつか絶対に書こうと思っていた。
でも、それがいつかは自分でも分からなくて、「気が向いた時」くらいに思っていた。

2023年9月1日
一枚のCDが一通のメールを運んで来たことが、
2023年9月11日
一枚のカードが一人のアイドルから手渡されたことが、

私にとってとてつもなく大きな転機となった。

この日のことを刻むにはここに触れずにはいられない。その「いつか」が「今」だと感じたので今こうして少しずつ書いている。

どういう風にまとめるかも、幾つのnoteになるかも分からないけれど、自分の人生の記録だと思って。

※本当に日々生きているそのままの私としてのnoteなので、今回は推しの要素は一切出てきません🙇🏻‍♀️


続き🌱




同年代の  「同志」  との出会い

合格通知を手にしたその時から、地に足がついていない感覚だった。とにかく「今死んだらあかん」(いつでもあかんけど)という気持ちが脳内を占拠し、いつもよりちゃんと信号を守った。念願のスマホを買ってもらったけれど、歩きながら使わなかった。

無事にお正月をみんなで幸せに迎え、
願書は既に出していたセンター試験を私なりに真剣に受け、見事惨敗した。

センター試験から帰って発した第一声は
「推薦で受かっててよかった~~~……」
というなんとも情けない言葉だった。

その日は家族で焼肉に行った。私たちの闘いが、終わった記念だった。

後に自己採点をしたが、到底第一志望校には届かない、ちっぽけすぎる点数だった。
高校3年間、部活にも入らず殆どの時間を勉学に捧げたはずなのに。
あんな長い時間机に向かって何をしていたのだろうか、
この3年間で何を身に付けられたのだろうかと、そんな気持ちにもなる。

でも、人と形は違っても、「合格」は他の誰でもない、自分の力で掴み取ったもの。その重みは誰よりも感じていたし、それを自分の自信にした。


4月某日、ハレノヒ。
ついに特別支援について深く学べる場所に入学した。オープンキャンパスで出会った憧れの先輩にも出迎えていただき、最高の一歩を踏み出した。
同じ学部(「特別支援教育」の専門)の仲間は自分を含めたった18人。
小さな集団だったが、そこには全国各地から同志が集まっていた。
小学校、中学校、高校で友達は沢山できたものの、「同志」と呼べる友達は居なかった。この私の内なるでっかい想いを全て受け止めてくれ、共感してくれ、同じ熱量で語る人は居なかった。

それ故に、わくわくした。
ここの仲間、先輩、先生には我慢せずに、隠さずに、この想いを伝えてもいいんだ。
ここでなら、更に自分らしく生きられるんだ。
自分の居場所を見つけた気がして、嬉しいと言うよりも、安心する気持ちの方が強かった。

この集団の中で、大学全体をみても明らかに机上学習面に関しては劣っている(要するに頭が悪い)ことは感じ取った。しかし、共通言語を既にもっている仲間と話すことが、私の心を満たした。
志望理由も、合格を掴み取るまでの経緯も、未来の計画もそれぞれ違いはあるものの、根底にある想いは同じだった。

毎日がHAPPYだった。



変わった教育課程と「自由な時間」の使い方

授業は面白かった。
それぞれの教科を新たな視点で紐解いていった。
様々な「教育」について学んだ。
子ども目線にたって教科を学んだ。

大学生になって全力で50m走ると思わなかったし、19歳で自己ベストが出たのはいい思い出。
体育は得意な方だったが原理が理解できず跳べないまま誤魔化していた跳び箱5段(縦)の壁にぶち当たって、補講に呼ばれ、19歳になって跳び箱を跳べるまで跳んだのもいい思い出。(助走と手をつく位置、それだけでした👍)

音楽では最終試験で思い出の曲「紅葉」を無伴奏で歌ったり、
みんなと理科室で実験しながら課題解決に向かったり、
そこら辺に落ちてる枝と葉っぱで作品を作ったりした。

ずっと苦手で嫌いだった算数(数学)も、違う視点で見ると面白かったし、学ぶ順序にも意味があることが分かった。

でもやっぱり
「正解が明確にある」学問は苦手だった。

しかし、大学一厳しい数学の教授が、厳しい中にも愛のある人で、徹底的に私たちに人間力と教師力を求めた。
その中で、「算数が苦手な私」だからわかる気持ちや想いが、これから出逢う「算数が苦手な子どもたち」の心を柔らかくするかもしれないと感じた。
そうは言うものの、この人からいい評価を得たいと、直感で思った。昔からそういう直感は間違ってないことが多い。
教授の出す発問や課題にはどうにかすがりついた。最終試験は学習指導要領の算数領域を丸暗記したもの勝ちと分かっていたから、ここでどうにか1回でも自分を肯定したくて必死でやった。
そうすると結果は付いてきた。
この教授から【優】の評価が貰えたことはまた自分の自信になった。
苦手な「算数」(数学)と名のつく分野でも、自分次第で結果は付いてくることが自分で証明できた。


こう書くと優秀にも見えるが、実際は寝坊も遅刻もサボりもしたし、たくさん仲間に助けてもらったし、机上学習面で太刀打ちできずにしょんぼりすることもあった。
提出すべきレポートデータが消えてめそめそしたこともあった。

でもいつも前を向いて切り替えた。

苦手なことがあっても、失敗しても、支えあって助け合って励ましあえる仲間がいるだけでよかったりするんだから。


大学ではとにかく色んなことを経験したくて、色んなことに手を出した。

ずっとやりたかった硬式テニスをしようと人数不足・廃部寸前の体育会の部活に入って、下手くそながらも汗を流しながら新しいことに挑戦した。
元々両利きで、スポーツ系はサウスポーな私。サウスポーがめちゃくちゃ重宝される世界だったがなんせ初心者。チームには貢献できないままだった。でもとっても楽しかった。
華の20代は真っ黒に日焼けした。

それだけでは飽き足らず、入学前からずっとやりたいと思っていた「学園祭実行委員会」にも所属した。
来場してくださる皆さんが、子どもたちが、参加してくれる学生みんなが最高の時間を過ごせるように、自分の知識と技術をフル回転させながら、仲間とともに活動に励んだ。


授業、部活、委員会、バイト、ボランティア、支援員、遊び、習い事……
毎日のスケジュールが分刻みで、本当に忙しく過ごした。自己管理できる域を超えている時もあり、何かを思い切って辞める決断をしなければいけないと思いつつ、結局そんなこともできず、とにかくずっと駆け回っていた。


自分で「やる」と決めたことを、自分の都合だけで無責任に投げ出したくなかった。

自分には、全部必要だった。

この経験は全部今後の自分に、未来に出会う子どもたちのためになると信じていた。


そんなセカセカと忙しい中でも、「特別支援教育」に対する想いだけは誰よりも熱く、深かった。
故に、バイトは
公文の丸つけ先生と放課後等デイサービス。
支援員は
地域の小学校の普通級に在籍する支援が必要な子の支援。
ボランティアは
地域の特別支援学級と、大学近くの特別支援学校。

特別支援学校、
小学校の特別支援学級、
小学校の普通級、
放課後等デイサービス、
公文
と、バイトやボランティアも全て「それ」で固めた。

そして、それぞれの環境下で、目の前の子たちの姿を捉え、その子を支える先生の要望も汲み取りながらその子にあった【支援】を考えて、行動した。
そしてそれを細やかに記録した。

ボランティア先では一生ついていきたいと思える先生(「師匠」と呼んでいる)と出会った。私のこの溢れる想いを一番聴いてくれて、いいね👍と言ってくれて、自身の授業や過去の面白エピソードについて私以上に熱く語る師匠。
お父さん世代の師匠は、私に、未来に、沢山の期待をよせて、沢山の学びの場を作ってくださった。

「必要とされている」

それが何よりも嬉しかった。

やっぱり特別支援教育は面白い、ということを改めて教えてもらった。


ともに教員を目指す友達には何度も
「教員なんて一生やれるのに」
「今しかできひんことしたらいいのに」
と言われた。
確かに、今になってカフェの店員とかしてみたかったな~~~と思わないでもない。

でも、その時に出会う子たち、先生はその時にしか出会えない。

とにかく早く先生になりたかった。
1人でも多くの子に会いたかった。
その出会いが、その時間が、とっても大切だった。


ちょっとしたモヤモヤの正体

私にとってこれ以上の学び舎は無かった。
仲間に恵まれた。
環境にも恵まれた。
充実した毎日だった。

しかし、ずっと奥深くにはびこり続けるモヤモヤしたものがあった。
これ以上ない環境にいるはずなのに、満たされないなにかがあった。

「特別支援教育」に対するでっかい想いと
「特別支援の先生になる」というでっかい夢
それを語れる友達や先輩を持った。

しかし、結論、
それでも足りなかった。

私の心は埋まらなかった。


同じ想いの、同じ目標の、同世代の仲間はいるものの、この場所でも私は相変わらず異質だった。
言い方を悪くすると、浮いていた。
私の想いを語ると、「すごいな」「熱いね」と一言で括られることが多かった。
バイト先でも「大学生なのにすごいね」と言われた。

ここでなら、マイノリティにならずに生きられると思っていたのに。
ここでなら、より私が私らしく生きられると思っていたのに。

この自分一人では抱えきれない想いはどうやって消化したらいいんだろうか。

……そうか。私は今、「大学生」だからだ。

「本物の先生」になれば、
今度こそ本当の意味での同志とともに、子どもたちと毎日濃い日々を送る生活になれば、
この想いが自然と共有されたり、消化されたり、合わさって大きくなることを幸せに感じたりするに違いない。


次は、早く正真正銘の「本物の先生」になりたくなった。
それも、師匠のもとで。


試験では珍事件を連発してしまい、師匠の肝をこれでもか!と冷やしてしまったが、
無事に「合格」の通知が届いた。

無事に3種類の教員免許を取得し、
無事に大好きな学び舎を卒業することができた。

やっとだ。
長かった。

10歳で「先生になりたい」と思い始めて、既に12年の月日が流れていた。


やっと、「本物の先生」になれる。
今度こそ、「私の居場所」が見つかる。


卒業旅行で予定をいっぱいにして、あらゆる国や地域を旅して、ほぼ貯金が無くなったところから、私の「本物の先生」編はスタートした。



つづく


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