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わたし × 仕事 ~出逢い編~

このことについては、noteを始めた頃からいつか絶対に書こうと思っていた。でも、それがいつかは自分でも分からなくて、「気が向いた時」くらいに思っていた。
2023年9月1日
一枚のCDが一通のメールを運んで来たことが、
2023年9月11日
一枚のカードが一人のアイドルから手渡されたことが、
私にとってとてつもなく大きな転機となった。

この日のことを刻むには、ここに触れずにはいられないと感じた。その「いつか」が「今」だと感じたので、今こうして少しずつ書いている。
どういう風にまとめるかも、幾つのnoteになるかも分からないけれど、自分の人生の記録だと思って書いてみる。

※本当に日々生きているそのままの私としてのnoteなので、今回は推しの要素は一切出てきません🙇🏻‍♀️

……🌼……

「わたし」がどういう人か ということを自分で言葉にして説明する時、皆それぞれ自分のことを再度見つめ直し、自分を表現するのに相応しい言葉を探す。それが得意な人と、得意でない人がいると感じている。勿論、相手がどういう人でどういう環境かにもよるけれど。
初めて会う人なのか、
何度かお話したことがある人のか、
先輩なのか、未来の上司なのか、友達なのか、
カフェなのか、面接会場なのか、
はたまたパソコンの前なのか……

私にとって、「わたし」を説明する上で、「仕事」というものは、大きな柱のひとつである。
私の大まかな職業名を聞いた人は、大抵仕事をしている私の姿や仕事柄どうあるべき存在なのかをある程度想像することができる、みんなにとって身近な職業。
しかし、私はその大きな括りの中でも、更に細分化された、少数派に属しているため、具体的な仕事内容や仕事への向き合い方を相手が具体的に想像することは、容易くない。
だからこそ、
私はこの仕事にめちゃくちゃ誇りを持っている。
私は幼い頃からこの業界で生きると決めて邁進してきた自分にしかできないことがあると、本気で思っている。
これは大学で学んでいる時から感じていたことだが、社会人になった時よりも数年働いて「新人」では無くなりつつある今の方が更にその想いが地に根を張り、自分の中で太く、強くなっていることを実感している。

私の仕事は「学校の先生」だ。
そしてその学校(校種)は、
「特別支援学校」である。
私は「特別支援学校の先生」として生きている。

私はひょんなことから、幼い頃に「特別支援教育」と出会った。
それがきっかけとなり、その想いがブレることなく今に繋がり、「特別支援教育」「共生社会の実現」について、人生をかけて学んで実践していくと心に決めている。
これは私の生きる意味のひとつでもあると感じている。

上でつらつらと長ったらしく述べていた意味が少しわかってもらえただろうか。正直、この仕事について、この世界について言及することはとても勇気がいるし、とても慎重に言葉を選ぶ必要がある。しかしその行為自体が差別的なのではないかと思わないでもない。

とにかく難しい。

この何十年のうちに少しずつ考え方や捉えられ方が変わり、世の中に浸透し、政策は整えられているように見えるし、世間の理解が進んだように見える。
でも実際は何も解決に至っておらず、言葉だけがそれらしく独り歩きしている。
この世界で生きる私が「難しい」と感じるのだから、皆さんにとってはもっとそう思うかもしれない。今まさに悩んでいらっしゃる方もいるかもしれない。ここからは私の主観がだいぶ混ざってくるので、予めそのことを頭に置いてほしい。前置きが長いのは私の悪い癖だな。



「特別支援学校の先生」として生きる私

「特別支援学校の先生」と聞いて、具体的にイメージを持てる人は、あまりいない。なぜならほとんどの人が、その世界に交わることなく今を生きているから。
でも、分からないなりに、その仕事現場を思い浮かべた故にかけられる言葉は「凄いね」「大変でしょう」が大多数を占める。私も、逆の立場ならそう声をかけるかもしれない。そして私も実際のところ、友だちや先輩のご職業を聞いて、そう答えたことが何度かある。
別にそれがダメだと言うことではないし、「特別支援学校の先生」という仕事もまた、一般的なイメージはそうであることは事実だと思う。

しかし、私は根からこの仕事に対して「楽しさ」「新鮮さ」「濃密さ」そして圧倒的「面白さ」を見い出しているので、そう声をかけられた時、たまに返答に困る。
実際、めちゃ大変やけど。
たまにこの仕事を毎日こなしてる自分、凄いなぁと思うけど。
だから「めみってほんまに楽しそうに仕事してるしいいよな」とだけ言われるとまた、返答に困ってしまうという実にめんどくさい人間である。

誰にでもできる仕事ではない。
というか、
適正があるかないか、それがはっきりわかれる職業だと思う。
現場は想像を絶する程、壮絶な時もある。でもそれは敢えて口にして、分かちあってもらうようなことではない。

大前提として大変なのはどの仕事もそう。
仕事に限らず専業主婦の方もめちゃくちゃ大変な毎日なのであって。その大変さは他と比較したり他が決め込んだりするものでは絶対に無い。

私はどんな仕事であっても、
どんな働き方であっても、
仕事をする理由がどんなものであっても、
毎日自分の仕事や役割に真っ直ぐ向き合ってこなしながら生きる全ての人を素晴らしいと思うし、凄いと思う。
だから、私の仕事が特別大変で、私の仕事が特別凄いことではないというのは、言うまでも無い。

でも、
仕事を心底楽しめている人は?
仕事を面白いと思って毎日働けている人は?
仕事と自分の培ってきたスキルを直接結びつけながら、磨きながら、時に悩んでぶつかりつつも前を向いて進めている人は?
人間関係に迷いながらも親しい人に話を聞いてもらいながらどうにかやっていってる人は?
クッソ‼️と思いながら今の現状を少しでも変えようともがいている人は?
今の仕事に、自分に、誇りをもって生きている人は?

もしかしたら私が思っている以上に多くないかもしれない、と改めて気づいたのはつい最近だったりする。

何故この世界を知ったのか
何故この道を突き進もうと決意したのか

根底にはいつも「好奇心」があった。
「なんで?」「どうして?」
「おもしろい」「不思議だ」
「こうしてみたらどうなる?」……

好奇心旺盛な小学1年生のめみちゃんのお話。


「少女」 と「少女」の出逢い

人より少しお節介で、人より少し正義感が強くて、
人より少しふくよかで、人より少し食べることが好きで、
人より少し歌が好きで、人より少し目立つのが好き
そんな少女、めみちゃんだった。

大好きな保育園を卒園して、知り合いがほとんどいない地域の小学校に入学した。
そこで出会った少女がいた。
私(たち)とは違うフロアにある教室に通う女の子。でも、同じ1年生だった。

正直、出会った時のことはあまり良く覚えていない。しかし、「1年生の頃から一緒にあそんだり勉強したりしてたなぁ」と振り返って母は言う。私はその性格から、彼女との「仲良しペア」を積極的に引き受けたのだろう。
その教室が「特別支援学級」であること、
そこは障害をもつ子が通う学級であること、
その女の子は「ダウン症」であること…
それは後に知っていくことになる。

音楽、体育 等の授業は一緒にすることが多かった。授業の前に教室まで呼びに行って、手を繋いで移動し、一緒に授業を受ける。基本的に支援級の先生も一緒だが、その先生は友達同士のかかわりを大切にしてくれた。いつも1歩引いたところから見守ってくださっていた。
一緒に過ごす中で、何事にも一生懸命な彼女の姿がとても素敵だと感じた。加えて色んな先生が「ありがとう」と言ってくれるし、その子も「だいすき」と言ってくれる。
元々世話焼きでお節介な私は、その「役割」にとてもやりがいを感じた(当時小学校低学年だったので敢えてこういう表現にしている)。

彼女と私はどんどん仲を深めていった。2年生、3年生と歳を重ねる毎に、休み時間も一緒に遊ぶことが増えた。特別支援学級に通う年下の子たちとも仲良くなった。とにかくみんな良く慕ってくれて、可愛くて…その時間が楽しかった。
先生もまた、私のことを受け入れてくれていた。

家でもいきいきとそんな話をしていたのだろう。そんな私の姿を見て、母は私にひとつの漫画を買ってくれた。とても大きくて、分厚くて、重くて、綺麗な表紙の漫画だった。それが
「光とともに…~自閉症児を抱えて~」
だった。

「光君」との 出逢い

当時の私は母が漫画を買ってくれるなんてラッキー!位にしか思っていなかったし、読み進めても「絵がめちゃくちゃ綺麗だな」位の感想だったと思う。でも母は何も言わずに、新刊が出る度に買ってくれた。
そうしているうちに段々、自分の身近な人や環境・経験と、その物語の内容がリンクし始めた。

この歩き方、あの子もしてるな…
あの子ももしかしてこういう気持ちなのかな…
オウム返しってなに?…
お腹いっぱいなのになんで食べ続けるんだ?……
こういう風に次はお話してみよう!…

「人って、おもしろい。」
「もっと、知りたい。」

表面的で浅いけれど、知識として「特別支援教育」が私の中に蓄積されていったのが、3-4年生の話。

そこからは早かった。

特別支援学級のみんなとかかわる中で、どの子がどんな障害をもっているか大体予想ができた。
何が好きか、どんなことに困りを感じているかも言動でなんとなくわかった。
黙々と同じ絵を描き続ける子に興味津々だったし、私もそれを「凄いね」と言いながらずっと見ていた。凄まじい集中力だった。
授業の中でも、休み時間の遊びの中でも、
漫画で得た知識と、実体験がリンクしていく。
自分の行為が彼女らの笑顔を生む。
とにかく面白くて、彼らの世界を少しずつ知ることができるような感覚だった。

一方で、なんで泣いているか、なんで座り込んで怒っているかが分からない時ももちろんあった。私(たち同級生)では到底太刀打ちできないこともあり、授業に行かなきゃいけないのに…と座り込んで動かないその子を前に困り果てることもあった。そんな時、いつも一歩後ろで見守ってくれている先生がそっと寄ってきて「後で追いつくから、先に行ってて。」と声をかけてくれた。
あんなに頑なに座り込んでしまっていたら、今日は授業来れないんじゃないかな……
そう思いながら私たちだけ先に授業に向かって、いつも通り授業を受けていると、数分後に彼女と先生が現れた。
彼女は嘘みたいにニコニコしていて、上機嫌で授業へ合流した。

「さっきまであんなに怒っていたのになんで!?」
「先生は彼女になんと声をかけたんだろう」
「なんで私(たち)ではダメだったんだろう」
「次同じ状況になった時はどうしたらいいんだろう」

憧れ7割、悔しさ3割だった。とにかく、その過程を知りたいと思った。

私も、私も…!!

私も、障害をもつ子どもたちの心の中を知りたい……
私も、障害をもつ子どもたちのことを優しくサポートしながら一緒に沢山のことを経験したい……

……私、特別支援の先生になりたい!!

そこから、私の「将来の夢」は一気に現実味を増した。小学校の学級通信にも「特別支援の先生になる!!」と宣言し、大好きな小学校を卒業した。

これが、私の「出逢い」の話。この時から私の中に「特別支援教育」が、深く根を張り始めていた。


「特別支援」をより学べる場所へ

大好きな先生とも大好きな友達とも別れ、また知り合いがいない中高一貫校に入学した。その学校にはいわゆる「特別支援学級」はなく、数年間はその世界と直接的にはかかわらない環境に属することになる。それも分かった上での進路選択だった。
新たな世界で、新たな学問、友達、先生、「好き」、「苦手」と出逢った。
本当に沢山の経験をした。
自分は「正解」が明確に用意されているものをその通りに進めて課題解決するということが苦手であるということ、
逆に「思いのままに」表現することや解釈がいくつかあることに対しては自分の強みがでること、
自分のことをより詳しく知った。
海外研修で世界の広さを感じた。
一方で、5年生から習っていた歌の世界がとにかく好きで楽しくて、その世界に飛び込んで見たくなった時もあった。

しかし、根底は、一切ブレることがなかった。
いつも脳裏には彼女らが居た。

高校2年生。進路選択の時期。
改めて家族会議を開き、進路のことについて話をした。

あの出逢いをきっかけに拓かれた世界
ずっと色褪せることなく自分の中で大切にしてきた想い
好きなことや得意なことを細く長く続けてこれたという自覚
その自分の好きなことを活かせるという強み
なによりも、彼女らに対する愛

「私はこの大学で、特別支援教育を学びたい。」

家族からも色んな意見が出たが、全てに自分の想いを通して答えられたことも自信になった。
家族みんな背中を押してくれた。

ところが、残念なことに、
成績が良くなかった。このままではまずい。

実技科目で稼げる、「意欲・態度」も評価に含まれる内申点はまずまず良いものの、応用力が試される模擬試験は全く歯が立たなかった。もちろんセンター試験の過去問も酷いものだった。

ここから、第一志望校に合格するために翻弄する日々が始まる。
センター試験を捨てて(表向きには捨ててない)、内申点、小論文、面接の3点セットで合格を掴みにいく策に完全に路線を変更した。
「この溢れる想いをそのまま教授にぶつける」
それが一番の近道であり、ひとつしかない合格への道だった。ただ、倍率がめちゃくちゃ上がる。

特にラスト1ヶ月は本当に壮絶だった。家族総出で私の第一志望校合格へ向けて、それぞれがそれぞれの得意分野を担当し、私のために力を貸してくれた。そしてまた、私も力の限りやった。
全ては自分の夢を叶えるために。

先生は言う。
大学選択、大学合格がゴールではなく、あくまでも通過点。
どんな大学に進学しても、そこでどう自分で学びを広げていくかで未来は変わる。

そうは言うけど、先生。
そりゃあ、知名度高い大学であればあるほど学校としても良いに決まってる。
もちろん私は自分のため、未来に出会う子どもたち、ご家族のために頑張るのみだが、
最高のタイミングで必要なものを買ってくれて、
習い事を沢山させてくれて、
「好き」を増やしてくれて、
現在全員総出で応援してくれている家族と、6年間熱意と学力が追いつかない私を支えて最後まで諦めずに並走してくれている学校とに恩返しがしたい気持ちもまた、でっかかった。

12月20日、高校3年生の終業式。10:00。
1枚の紙切れの中に小さく印刷された自分の番号を見つけた時は、これまでの人生を全肯定してもらえた気分だった。
自分の生きる道  を、照らしてもらえた。

人間って本当に腰が抜けるということを体感した。腰が抜けて立てなかった。

あの数字の羅列は一生忘れない。

そしてあの時の職員室の歓声
お世話になった先生同士の「ようやく肩の荷がおりました」という言葉と固い固い握手
友だちが職員室になだれこんで祝福してくれた景色
父からのギチギチのハグ
電話越しに泣いている母の声
ギラギラにデコられた「おめでたい」というメッセージが添えられた姉からのメール
憧れの先輩の「待ってます!」というメール
静かに怖い英語の先生の涙と握手

一生、忘れない。

こうして、特別支援教育を一番学ぶことができる大学への進学を決めた。


自分の目標に、一歩近づいた。


つづく


🌱