そうだそうだ、自分って愛そのものだったわ。
少し前に思った。
自分は「愛」そのものなんだということにしようと。
完全にイメージの話。
自分が「愛」を手で持つんじゃなくて、胸の中に組み込まれているとしたら、自分の行為と愛には距離はなくて、自分の行為=愛になるじゃないかと。
手で持っていると、「人にあげようかな、迷惑かな、どうしようかな」って躊躇したり、自分との距離があるために冷めてしまったりする。
でも「愛」という純粋なものを、ただただあげたいから「あげる!」「よかったらどうぞ!」ってアツアツのうちに届けられたら、物事がスムーズにいくような気がして。手に持って届けるというより体でタックルする感じ?笑
何より「自分があげたかったからあげたんだ。」と納得できるような気がして。そこには見返りがなくて損したとかあげればよかったという後悔とかネガティブな気持ちはない。
もちろん愛のタックルが押し付けがましいとか、ありがた迷惑とか、あると思う。でもそこは指摘されないとわからないし、されたらその時に反省したら良いと思う。躊躇するくらいならあげよう、今はそう思う。
自分=愛だと忘れないようにしようと思って、閃いた。
そうだ!自分のミドルネームを「愛」にすれば良いんだと。爆笑
(苗字)・アイ・(名前)
自分=自分の名前だから名前に愛がくっついていれば自分=愛になる。というわけでミドルネームをアイとした。
・・・
最近、一部の人からは羨ましがられるようなモノを手にすることができた。もちろん手に入れるために前々から努力して、お金も時間も手間もかけた。周りの人もそれを十分にわかってくれていると思う。
まだまだかけたコストに対して得た効果に満足していないから、人に無尽蔵にお裾分けしてあげようという気にはなれず、人とタイミングを選んでお裾分けしている状況だ。
同時に手元にたくさんあるから、狙われるんじゃないかとか、自分=それを持ってきてくれる人としてこれから扱われるんじゃないかと、宝くじに高額当選した人に似た心境になった笑。多分自意識過剰笑。
でも簡単にはあげたくない気持ちがあるのはしょうがなくて、きっと欲しいんだろうなと羨ましがっている人には申し訳ないなと思いながら躱わしていた。
んで、自分=愛ということをさっき思い出した。そうだそうだ、自分って愛そのものでしたわ。すっかり自分にアイと言いうミドルネームをつけたことも忘れて。忘れてんじゃん。
何を怖がっているんだと。
手にしたものなんて、この先頑張ればいくらでも手に入れることができる。今、努力した成果を応援してくれていた人に、愛という形でお裾分けをしてあげないで、どうするんだと。
与えることで自分に興味を持ってくれたり、それ自体に興味を持ってくれたりするかもしれない。この前はありがとうってお返しをくれるかもしれない。そうしたら、すぐに空っぽになっちゃっても良いかな。ってちょっと思えるようになってきた。
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