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矢崎飛鳥氏に聞く「Engadget日本版はなぜ終わったのか」(1)

毎月専門家のゲストをお招きして、旬なネタ、トレンドのお話を伺います。


今号から対談の新シリーズをお送りする。

お相手は元Engadget日本版の編集長である、矢崎飛鳥さんだ。

ご存じの方も多いかと思うが、 Engadget日本版とTechCrunch Japanは、3月31日いっぱいで更新を終了した。4月末まで記事を読むことはできるが、それ以降は検索することも、読むこともできなくなる。

背景にはどのようなことがあったのか、気になる方も多いと思う。

そこで、矢崎編集長に直接語ってもらうことにした。

とはいえ、第一回目はその前に、矢崎編集長がどんな経歴を辿ってEngadget日本版編集長になったのか、その話をしていきたい。

そのことを理解した上で、Engadget日本版というメディアがどんなメディアだったのか、そして、それがどのような経緯で日本での歴史を綴じることになったのかを語っていきたいと思う。(全5回予定)

なお、初回分は無料公開されるが、2回目以降は都度課金もしくは月額制マガジン「小寺・西田のコラムビュッフェ」ご購読が必要になる。

全編掲載後に他メディアへの転載が予定されているが、転載版は大幅にカットした「短縮版」となるため、全長版はここでのみ読める。ぜひご購読をご検討いただきたい。


対談に入る前に、まずはことの経緯を解説しておきたい。

冒頭でも述べたように、Engadget日本版とTechCrunch Japanは、3月31日いっぱいで更新を終了した。このことは、2月15日に突如としてアナウンスされているが、実は、編集部側にも急遽伝えられたことであり、まさに「青天の霹靂」であったようだ。

これらのメディアは運営が苦しかったわけでも、PVが出ていなかったわけでもない。テックメディアとしてはきわめて順調に運営されていた。

今回更新の終了を決めたのは、両メディアの運営元である「Boundless」。2021年5月、Verizon Communicationsから、AOL・YahooとともにEngadget事業をApollo Global Management, Inc.が買収したことに伴い、運営元がVerizon Mediaから「Boundless」になっている。

なぜBoundlessが日本での展開を止めたのか、そしてその結果としてどうなるのかは、対談の中で詳しく述べていくことになる。

というわけで、対談本編に入っていこう。

■アスキーの20年、Engadgetの5年

西田:じゃ、よろしくお願いします。本当に急な話で。

矢崎:そうね。もう……西田さんには(サイトクローズ発表の)翌日ぐらいに説明しましたよね。

西田:うん、翌日ぐらいですね。

矢崎:今日は、それから一カ月ぐらい経った(注:収録は3月中旬に行われた)んだけれども、そんなに状況は変わってない(苦笑)。

西田:ははは。

矢崎:でも、一からお話ししたほうがいいですよね。

西田:そうですね。順番に行きましょうか。

まず、矢崎さんって、Engadgetの編集長を拝命したのって、いつでしたっけ。

矢崎:2017年の1月から。

西田:5年か。

矢崎:5年前。厳密にはもちろん、その前の年の秋ぐらいから話はあったんだけれども。

西田さんにはちょっと事前にお話ししたような気がするけど、もう本当に、こんな私などに、申し訳ないんだけどすごく秘密にさせてもらって。結構な驚きとインパクトを持って迎えていただいて。

西田:うん。

矢崎:自分が思った以上に驚いてもらって。すごくそれは嬉しかったんだけども。それで、就任会見みたいなのをやって、そこからもう5年経ちました。

西田:そうか、5年ですか。

いや、もともとね、「週刊アスキー」があって、その後にWeb版の週刊アスキーというか「週アスPLUS」があって、それをいろいろやって、まあいろいろあって。

矢崎:そう。西田さんはね、前職の時からお付き合いがあったのでアレなんですけども。

ちょっとね、振り返らせていただくと、私はEngadgetの編集長に、前編集長の鷹木(創)さんにお声がけをいただいて就任した形で。

その前は、なんと、20年近いのかな?

西田:そうか。

矢崎:20年はないか……ファミ通を入れて21年。

西田:ファミ通を入れて21年。

矢崎:まあ、そこそこ、かなり、年寄りだということがバレてしまうんだけど(苦笑)。

西田:まあ、もう我々いい歳だから。

矢崎:本当に長いことこの業界に携わらせてもらってて。ファミ通の3年というのは、まあ、部活動みたいなものですよ。なんの権限もない、本当にぺーぺーの編集者で。

当時は西田さんもゲーム?

西田:僕はゲームじゃなくて、PCですね。「ASAHIパソコン」の編集バイトだったから、本当に最初は。で、ライターになって。

矢崎:学生のバイトから3年間、「ファミ通PS」という、プレイステーションの専門誌だったんだけれども、そこでアルバイトをしてて。

言うても、ゲームも今でも大好きなんだけども、パソコンが面白くなってきちゃったじゃないですか。

西田:1990年代の後半って、やっぱりパソコンが日本に本当に普及し始めるときだったから、日本メーカーも元気があって面白かったですよね。

矢崎:すごくパソコンに気が行っちゃって。

今は、「ファミ通」と「アスキー」、(発行元が)違う会社になってから久しいけども、当時はまったく同じ会社から出していたのね。「週刊アスキー」を作ってたのと、「ファミ通」を作ってたのはまったく同じひとつの会社だったんだけど、僕はアルバイトだから、キャリアパスがないわけよ(苦笑)。

だから、一回辞めて、普通に「週刊アスキー」の面接を受けて。

そしたら、福岡(俊弘氏。元週刊アスキー編集長)さんに、「別に、人事に言えば良かったじゃん」と言われた、という。世間知らずだからさ。

西田:まあ、まだ若かったからね、我々。

矢崎:「あ、辞める必要なかったんだ」みたいに後で思ったんだけど。

まあそんなこんなで週アス(週刊アスキー)に行って。で、僕ね、週アスに行ってから、すぐにすごい頭角を現したわけじゃないんですよ。

西田:そうですか。

矢崎:なんなら、伊藤(有氏。現Business Insider Japan編集長)くんとかのほうが先にデスクになってるからね。

西田:あ、伊藤さんのほうが先にデスクだったんですね。

矢崎:そうそう。僕はすごく遅咲きというか、ちょっとほら、やんちゃな部分もあったじゃない?

西田:確かに。

矢崎:危険な人、みたいなところもあったから、倉西さんという人が部長になるまでは、ちょっとなんか、人事が慎重だったという。じゅうぶん表に立って目立つようなことをしてて、最終的には編集長代理にまでなるんだけれども。

でも、やっぱり、最初、パソコンが大好きで週アスに入っても、もう自分のパソコンが好きなんてレベルは敵わないのね、アスキーに入ると。

西田:アスキーはそうでしょう。

矢崎:ものすごい。今もEngadgetにいる――いた、になるのか。松村(敦)さんとかも、小林(直樹)くんとかもそうだけど、あの当時から自分で組み立てちゃうとかね。GPUの知識も凄いし、なんか……敵わない。

当時、「週刊アスキー」って、業界のニュースもまだネットがなかったから最前線で拾ってたじゃない? NEWページが冒頭にあって。

西田:そうですね。

矢崎:だから、ニュース班みたいなのがいて。とにかくプロフェッショナルな現場だった。

西田:あの当時はまだ雑誌にニュース班がいて、それで一生懸命記事をね。

矢崎:ニュース班、ハード班、ソフト班。今はそれ全部一緒でしょ、みたいな。今だったら動画とか、いろんなのがあるんだけど。

当時はもう本当に、ソフトウェアの班とか、ニュースソースを追う班とか、ハードをやる班とかがあって。

でも居場所がなかったの、入りたての頃。

西田:そうなんだ。

矢崎:そう。意外と、自分が何をやるのか――パソコンが好きでここに来たけど、意外とね、活躍の場がなくて。みんなが思った以上にプロフェッショナルだったのと、週アスはあんまりゲームをやらない、なんなら当時はAppleの情報もやってなかったの。

西田:最初はApple載ってなかったですね。

矢崎:アスキーには他にMac専門媒体があった、というのもあるんだけれども、福岡さんがMac大好きでMacユーザーなくせに、Appleの特集は絶対やらない、という人だった。

当時のシェアとかを考えたら、その判断も全然ありえる。

Appleはまだジョブズが戻る前の、けっこう危険な状態の時とかだったから。ジョブズが復帰して話題になっても、巻頭のニュース速報ではやるけども、特集に記事を出したのは、2010年とか、かなり後期。

西田:そうか。それは、週刊アスキーのデスクになってた時代?

矢崎:副編になってたぐらいから。それくらいAppleはやらない、という主張がすごく強くて。今だと考えられない。Appleに支えられてるみたいな感じなんだけど。

西田:それは確かに。

矢崎:それぐらい徹底してたんだけれども。

■PDAとの出会いが人生を変えた

矢崎:まあ話を戻すと、僕はしばらく――別に当時はAppleが好きだったわけじゃないんだけど。

自分があんまり活躍できる場がなかった時に出会ったのが、PDAですよね。

西田:ああー、はいはい。そうですね。

矢崎:小さなコンピュータ、手帳。電子手帳。あれが刺さっちゃって。携帯電話も出てきてたんだけど。

携帯電話の特集もやってたんだけど、個人的にはもうPDAが楽しくてしょうがなかった。手のひらで。

西田:あの当時の携帯電話って、やっぱり携帯電話会社が作って与えてくれるもので、僕らが何か使えるもの、というイメージじゃなかったんですよね。

矢崎:ツール感がないのよ。ツール感がなくて、エンターテイメント端末だったの。iモードもすごかったし、もちろん携帯の特集もやって、担当してたんだけど。

でもね、全然面白くなくて、携帯電話。

全然面白くなくて、「Palm」とか「CLIE」とか「Visor」とか「WorkPad」とか、あのへんが出てきた時に、ものすごく心ときめいて、それの特集ばっかやるようになった。

そうしたら、だんだんこう、モバイルコンピューティングのほうに来るじゃない、流れが。

それで認められて、連載も持つようになって、さらにデスクになって、と。

だから、PDAがなかったらたぶん途中で週アスをクビになったかもしれない(苦笑)。

西田:やっぱり、自分が「これが好きだ」というのが見つかったから、それに熱中したし、熱中したからこそ、記事も当然熱意があって、外に面白さが伝わるものになったし、というところで変わっていった。

矢崎:まさにその通りで。

あとは、当時のPDAって今のスマートフォンと比べると――スマートフォンって、コミュニケーターとPDAの派生から来て融合したものだ、って、西田さんはもちろん分かってると思うけど、一般の人ってそうじゃないじゃない。わりと、スマートフォンは携帯電話が進化したように思ってる人が多いと思う。でも、スマートフォンの基本的なことはPDAだと思ってて。PDAこそスモールコンピュータだったしね。通信の部分はもちろん携帯電話のものが多かったけど。

当時、PDAを手にして、通信機能があった「Treo」とか、「WorkPad」のPHSが入ったやつとか、徐々に出てきはするんだけど、携帯電話がこの形になるって、もうその時に思ってたの。信じてたの。

■「週間リスキー」誕生

矢崎:絶対そうなるって分かってたんだけど、でも時代って面白いもので、携帯電話がものすごく一般的に普及していくと、PDAって一回廃れちゃうじゃない。

西田:そうですね。

矢崎:完全に世の中からなくなっちゃって。で、スマートフォンが出てくるまで、ほんのちょっとブランクがあるのよね。

西田:5年ぐらいかな。

矢崎:で、そのブランクの間に、ものすごく、やっぱりまたちょっと沈む。

沈むんだけど、でも当時はたまたま、納得はしてなかったんだけど、ノキアが世界でものすごいシェアを取ってて。

携帯電話からスマホに行ってから、一部の機能がちょっと落ちたりしてたじゃない。

西田:そうですね。

矢崎:それと一緒で、PDAがなくなって、日本はガラケー全盛期だったんだけども、ノキアがけっこう「高機能コミュニケーター」みたいなのを出して。日本では売ってないんだけど。日本で売ったのは「702NK」とか、ソフトバンク(当時Vodafone)が出したやつなんだけど。

で、ちょうどそのブランクの5年間は、もう死ぬほどノキアにハマってたの。

西田:だから、海外から謎のコンピュータを持ってきて紹介する、というリスキーなことをやってた。

矢崎:そうそう。今は日本語ロケールに設定するだけでいい――まあ技適の問題もありつつ、日本語ロケールで選ぶだけだけど、当時はずっと大変で。ノキアの海外の携帯を買ってきて、日本語フォントを入れて、日本語FEPを入れて、みたいなのをする必要があった。

そしてね、ググっても情報がない。

西田:うん。そうですね。

矢崎:だから、自分で、日本でFEPを作ってる人と連絡を取り合って、情報を。で、日本でもノキアの携帯を使えるようにして、そのあまりにもニッチすぎる情報を、「週間リスキー」として掲載したりしてたら、仲間ができて、山根博士(山根康宏氏)とも仲良くなって。

で、その感じがそのままスマートフォンに流れていく、みたいな。本当に、モバイルフォンという製品がなければ、自分のキャリアは築けてないぐらい。

西田:なるほどね。たしかに。

前に対談をした時に、その話もしてもらってて、まったく同じ時代を生きてて、同じようにやっぱりやってた、とすごくよくわかるんですよね。

一方で、我々の仕事とか、世の中を変えちゃったのはやっぱりスマホで。iPhoneが出て、Androidが出て……という中で、気が付いたら我々の仕事の内容も変わってた、みたいなところがあります。

矢崎:携帯電話の記事を「週刊アスキー」でやってた時って、けっこう携帯電話のジャーナリストというか、書き手の人に書いてもらうことが多いじゃない?

でも、スマートフォンになってくると、PC系ライターの人にまた仕事が戻ってくる、というのが一回あって。もちろん通信の部分もあるから、引き続き携帯の専門家にも記事とかをお願いしてるんだけれども、やっぱりPCのことをわかってないと、スマートフォンの進化って書けない、みたいな。今もまさにそうですよね。

西田:そうですね。

矢崎:ってなってて。そこでいろいろ融合したな、と思って。

西田:確かに。

矢崎:僕はもちろんパソコンも大好きで、パソコンもずっと追ってはきているんだけれども、スマートフォンの時代になっちゃったら、今度はパソコンが急にコモディティ化が進んでね、面白いものがなくなって。

でも、そうこうしてるうちにAppleがまた再び、日本に限ってだけどすごいシェアを取り戻してきて。Appleがこんなことになってるなんて、ねえ。

西田:いやあ、思いもしないですよ。

矢崎:10年前はまだね……考えられなかった、この状況。

西田:そう。微妙に面白いのは、僕も矢崎さんも、Appleがめちゃめちゃ大好きでAppleのことをずっと書き続けたわけじゃない、ということね。

矢崎:それは、Appleの取材にお呼ばれをいただいてる全員がそうですよね。

西田:そうですね。

矢崎:全員、もともとApple大好き!という人は――林信行さんはもともとAppleユーザーだったかもしれないけど、ほかの人はそうでもないですね。

Appleにね――僕がAppleに招待してもらえるようになったのはEngadgetに来てからなんだけども、アスキー時代から取材には行ってた。ほんとにね、西田さんとも何回一緒に行ったかな。年に一回じゃないもんね。

西田:年に3回、4回とか。

矢崎:たぶん10回以上ご一緒させていただいてると思うんだけど。

でも本当にこの仕事をやって良かったな、と思うのは、山根博士と一緒に、深センのね。山根博士はゴミ屋敷って言ってたけど、携帯電話のパーツを――中古携帯電話のパーツを売ってね、その日暮らししてる方がいる。

西田:いますね。

矢崎:それも見たし、こうやってライターの人たちともすごく深い関係を、ジャーナリストの人たちともすごく仲良くなれて、ブロガーの人ともけっこう知り合えて。

それで、ティム・クック、ジョナサン・アイブやら、スティーブ・ウォズニアックとね、一緒に写真を撮ったりできて。全部が見れた。

西田:確かに。

矢崎:どこかのメーカーに入ってたら、全部は見られないじゃない。

西田:そうですね。

矢崎:編集者をやったことで、全部が見れたな、というのをすごく思う。

それはすごく良い経験。

<次週へ続く>

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