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100日後にデビューするYouTuberを見つけたので盗撮してみた #32

ササノは吸い寄せられるように、その歌声の方へ行ったという。すると、『東京大学』はいつものように自分の世界へ入り込み、自作の歌を熱唱していた。手には醤油のボトルを持っていた。
醤油なんてありふれたもの、どこにでもある。しかしササノは、『東京大学』の持つそのボトルが、猫のそばに落ちていたものと同じだと確信したそうだ。

「でも、キレれなかったんです。こいつは自分が大切にしていた猫を殺した。そしてたぶん脚を食った。証拠は無いし現実味の無い嘘みたいな話ですけど、少なくともそのときの僕はそう思いました。めちゃめちゃキレるべき理由があったんです」

話の方向性が見えず、私は黙って数回、控えめに頷く。

「怖かったのはもちろんあります。でも、中学生くらいのときなら一瞬でガッと興奮して後先考えず感情を爆発させるみたいなこと、普通にあるじゃないですか? それが起こりうる状況やったんですけど、僕は怒れへんかったんです。ただ心臓がバクバクなっただけで、とにかくその状況から逃げようとして」

言いたいことはなんとなくわかる。そのとき、大切にしていた猫のためにも何か行動を起こしたかった。でもできなかった。
だからそのことを悔いている、ということだろう。ただ、それだけではない何かを感じた。気のせいだろうか。

「たぶん、その出来事が分かれ目やったんです」

おそらくここからが本題だ。

「分かれ目?」

「人生の、というと大袈裟かもしれないっすけど、僕の人格をつくる上での大きな分かれ目だったと、今になって思ってます」

「どういうことですか?」

「キレれないんです。今だに。どんなにムカつくことがあっても。僕は相手に怒りをぶつけることができません」

「キレれないと、人生変わりますか?」

「自分の意見を言えなくなります。間違っているかもしれないとか、相手に嫌われるかもしれないとか、理由はそんな感じです。責任を負いたくないとかね。でも実際、たとえ何か間違っていたとしても大きな問題になることってあんまり無いんですよね。キレた経験が無い人は、たぶんそこが理解できない」

「なるほど」

「大人になるにつれて知識だけは身に付くんで、どんどん自分を守る理由を思いついてしまうんすよ。そうなるともう泥沼で、自分の意思を示さないことを簡単に正当化できるようになってしまう。よくないですよね」

「空気を読む、という意味では良いときもあるんじゃないですか?」

「どうなんでしょう。空気読んだ上で何か発言するとか行動するなら良いっすけど、ただ黙って誰かの言動を待ってそれに同調するだけやったら、別にそこにいる意味無いんちゃうかな」

「そういう人格になるきっかけを『東京大学』がつくった、てことですか?」

「はい。あのときキレてたら、て思うことはけっこうあります。中学生やったし。知識無いし感情的な時期やからキレることを経験するならその時期なんすよ。その最大のチャンスを僕は逃したんで」

という言い訳をしているように見えるのは私だけだろうか。別にそんな経験が無くてもキレるのなんて自分の匙加減一つではないのか。そう思ったが口には出さなかった。

「子どものときにキレとかへんかったら、大人になって自分の意思を伝えようとしたときブレーキがかかります」

「そんなもんですか?」

「意思を伝えながら生きる人と隠しながら生きる人、まったく違う人生だと思いませんか?」

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