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理系脳の僕が書籍編集者にたずねる、たった1つの数字

少し興奮していたからだろう。待ち合わせ場所には約束よりも15分も早く着いてしまった。
僕の手には一冊の本が握られていた。午前中のスターバックスは、比較的空いていた。

待ち合わせをしているのは、初めての顔合わせとなるOさん。彼女は一流の女性編集者だ。僕の著書「お金のむこうに人がいる」を読んでくれたらしく、お金についての新しい本の執筆をメールで打診してきたのが彼女だった。

そのメールを拝見したとき、彼女の名前を見て何かが引っかかった。ネット検索ですぐに判明したのだが、僕の大好きな森博嗣さんのエッセィ「『やりがいのある仕事』という幻想」を作った担当編集者だった。エッセィの中で彼女の名前が登場するから、記憶のどこかに残っていたのだろう。

自宅の本棚から引っ張り出してきたそのエッセィを右手に握っていた。「あなたの編集した本の愛読者です」という言葉がうわついたお世辞だと誤解されないように、証拠として持ってきたようなものだ。

この本の著者の森博嗣さんは主に推理小説を書いている。
代表作の「すべてがFになる」は綾野剛、武井咲主演でドラマ化されている。僕が一番大好きな作家で、ほとんどの小説が家の本棚に並んでいるし、彼のエッセィも愛読している。

彼の小説を初めて読んだとき、衝撃を受けた。他の小説とは読み味が全く違うのだ。非常に論理的な小説で、細やかな感情表現は少なかった。しかし、それでいて面白い。経歴も面白い。現役の国立大学助教授だったのだ。

理系脳でも、いや理系脳だからこそ、面白い小説がかけるのだろうと思った。おこがましい話だが、理系脳の自分も、小説を書く選択肢がもしかしたらあるのかもしれないと思った記憶がある。それほど衝撃的な作品だった。

これから会うOさんは、森博嗣さんとどんな会話をして、このエッセィをつくったのだろうか。そして、僕とはどういう会話をすることになるのだろうか。想像を巡らせながら、僕はカウンターで、夏季限定のコーヒーエイド クール ライムを注文した。


二人用のテーブルの席について、エッセィをテーブルに置いたときに、ちょうど彼女が店に入ってきた。ネットで顔を確認していたからすぐにわかった。
直接お目にかかったOさんは、やる気と誇りにあふれる方だった。想像通りである。

名刺交換をして、ほとんど世間話もしないままに、僕は前のめりでいろいろ質問を始めた。エッセィの中にも登場するOさんに、勝手に親近感を抱いていた。きっと間の詰め方のおかしい人に写ったことだろう。

Oさんの話によると、「『やりがいのある仕事』という幻想」という風変わりなタイトルは、森さんが考えられたそうだ。仕事についての本を書いて欲しいとお願いしたら、このタイトルで原稿が送られてきたという。

実に森さんらしい。他のエッセィ作品でも同じなのだ。
お金の増やし方についての本を依頼されて書いたのは「お金の減らし方」。整理術の本を依頼されたときは「アンチ整理術」。

一見すると、天邪鬼(あまのじゃく)のように思えるが、どれも本質をついている。(僕は、「アンチ整理術」はまだ読んでいないのだが、「ものは散らかっているが、生き方は散らかっていない」という帯から推察するにきっと本質的な本のはずだ)
本質をつきながらも、いや本質をついているからこそ、肩に力を入れて生きなくてもいいんだと教えてくれる。凝っていた体をほぐしてくれるような読後感がどの作品にもある。

僕はさらにOさんにたずねたいことがあった。
「あとがきに書かれていた話って、本当なんですか?」
そう言うと、該当するページをめくって、Oさんに見せた。

今年の一月一日から八日まで、毎日少しずつ執筆した。最近の僕は、作家業を引退している状態で、一日に一時間程度しか作家の仕事をしないことに決めている。

森博嗣「『やりがいのある仕事』という幻想」

この本は220ページの新書で、少なく見積もっても8万字はあるだろう。それをたったの8時間で書き上げたいうのだ。
時速1万字。1時間に原稿用紙25枚分。
原稿用紙3枚分の読書感想文なら、たった7分12秒で書いてしまうのだ。もし、本当なら、すさまじい速さである。

しかし、彼女は落ち着いた声で言った。
「本当だと思いますよ」
もちろん書いているところを見たわけではないらしいが、年明けすぐに原稿が送られてきたそうだ。趣味の工作を優先されることで有名な方だから、本を書くことに時間を使わないのはたしかなようだ。

そして、驚いたことに、Oさんは、森さん本人とは一度もお会いしたことがないと言う。
「森さんの貴重な時間を使ってまでお会いして、私がそれ以上のものを提供できる自信がない」とおっしゃっていた。

その気持ちは僕もすごくよくわかる。相手が森さんだからという話ではない。時間は誰にとっても価値がある。
だからこそ、僕が執筆の依頼を受けたときに、必ず編集者に聞く質問がある。森さんの話題が一段落した後で、ぼくはたずねた。

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お金や経済の話はとっつきにくく難しいですよね。ここでは、身近な話から広げて、お金や経済、社会の仕組みなどについて書いていこうと思います。 …

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