橋本倫史『ドライブイン探訪』

戦後、高度経済成長を経て、日本の隅々まで道路網が敷かれ、それにつれてドライブインもまた隆盛した。
巨大スーパーやモール、コンビニもない時代、ドライブインは、ドライバーのみならず、地域の住民にとっても、皆が集まるたまり場であり、食事処であり、宴会場としての機能を果たした。
そんな昭和のドライブインは、時代の流れの中でどんどん潰れていき、残存しているドライブインにも往時の賑やかな面影はない。
著者は、そんなドライブインを訪ね、その店主、経営者に話を聞く。この本は、その聞き書きを軸に書かれている。

ドライブインが急増した背景にはクルマの普及がある。1961年には、自動車の世帯普及率はわずか2.8%だったのが、その後年後には世帯普及率が10%を超える。だが、それでも10%。クルマが普及していないのだから、もちろん道路もまだ車の走行を前提として整備されたものではなく、ほとんどの道は舗装されていなかった。
私は1967年生まれだが、私が産まれた頃は、まだほとんどの日本人はクルマも免許も持っておらず、道路もコンクリートやアスファルトに覆われてはいなかったということだ。全国、どこに行っても舗装された道路で交通網が整備されたのは、ここ50年のことに過ぎないのだ。その道路網の発達とともに急増したドライブインも、現在では、もう姿を消しつつある。
戦後の時代の流れの速さに唖然とする。

昭和の時代、人々の習慣には、交通網が未発達だった時代の名残が色濃く残されていた。ドライブインは、言わば江戸から続く「宿場町」の現代版としての役割を果たしていた。
インタビューで面白かったのが、昭和の時代、旅に出た人は、近所の人にお土産を買って帰る習慣が残っていたという証言だー「あの頃はお土産がすごく出たんですよね。皆さん、ちょっとどこかへ行かれると、ご近所にということでお土産をたくさん買って帰られていたんですよ。うちの店も、今でこそ食事も出してますけど、当時はお土産が中心でしたね」。
ネット通販で全国から何でも取り寄せることができる現在、お土産の放っていたアウラーそのエキゾチシズムは、ちょっと想像することができないだろう。そういえば、私は、日本のみならず世界を飛び回っていた父親に、当地の絵葉書を買ってきてもらうのがとても楽しみだった。

日本全国に道路網が敷かれたーそうは言っても、それは一律で敷かれていったのではない。元奈良県知事奥田良三が書いた回顧録は、「道路を車で走ると、県勢が一目でわかるという」と書き出されているー「県境を越えたとたん、それまでのデコボコの地道がすばらしい舗装であったり、逆に快適な舗装道を走っていた車が一転してデコボコ道にはいり、思わずシートから投げされそうになったりする。まさしく道路はその県の力を示すものである。いわば顔である」。
時代の変化といっても、地域によって、その発展の速度には、大きなばらつきがある。逆に、流行が廃る速度にもばらつきがある。大都市ではついぞ見なくなった昭和のドライブインが、地方にはまだぽつぽつと残っていたりする。その時代に取り残されたような建物、営業形態、そしてその店をとりまく人々の生活や習慣ー時代が変わっていく速度が一律ではなく、ばらつきがあることで、そこに時代の断層が露わになる。その寂れた風情が、哀惜の情を掻き立て、歴史や民俗への興味を誘う。

過去を追憶する証言は、その人の現実の記憶をそのまま語っていながら、どこか幻想的な風合いを醸し出す。
クジラが獲れる港町の女将はこう語るー「クジラ漁は江戸時代から続いていて、小さい頃から見てきましたけど、私自身はあんまりクジラを食べたことはないんです。クジラはね、昔はすごく安かったんですよ。このあたりにはリヤカーでクジラを打って歩いている人がいてね。その人が通ると道路が血だらけになるんです。それだけは鮮明におぼえてます。あの血だらけの景色を見ると、食べる気になんなくてね。ただ、クジラの美味しさは血にあるんです。だから一度冷凍しておいて、ちょっと解凍して出してます」。
クジラを乗せたリヤカーが通ると道路が血だらけになるー映画にしたらとても鮮烈なショットになりそうではないか。

「『なぎさドライブイン』の窓からは太平洋が見渡せる。白波が幾重にも重なり、浜辺に打ち寄せている。『白渚』という地名通りの風景だ。『こうしてパッと海を見るとね、どこにサザエがいるかわかるんですよ』と夫の勝さんは語る。『ただ、その目を身につけるには五年、十年かかる。毎日海を眺めて、やっとわかるようになるんです』。僕にはサザエの居場所など見当もつかず、ただ太平洋の荒々しさに圧倒されるばかりだ。」

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