運転する、のその後 2012-10-08

往復800kmの快適ドライブのあと、近場への家の車での運転もなんだかしやすくなった。

あの運転探究の時間で、何がかわったのだろうか?



あのドライブの何がよかったのか、と考えると、具体的には座り方も見方もハンドルの握り方・きり方も、運転のプランも、全て結果的によかったわけなのだが、それを生んだのはなんだったのか?と運転をするたびに思い返しては考えてみた。



そして思ったのは、たぶん「最小限の力で運転するというのは(自分の体にとって)どういうことだろう?」と疑問を持ち続けて自分に問いかけつづけたせいだと言えるんじゃないかということ。



それで思い出したのだけど、そういえばアレクサンダーテクニーク教師のキャシー・マデンは
“どういうふうにやるのだろうと単に思ってみる。それが適切なプランと言うのを作り出す。私たちはそういうデザインなのだ“
と言っていた。

もう、自分のシステムは答えを知っているのだ、と。



確かに、私たちはもう、こういった機能で存在しているんだから、自分でこう動かそう!と思う必要のあることって少ないのかも。



そして、ここはこう動かさなきゃ、とかいう「べき」事に対する思いというのは、人の肉体の自由を奪い、緊張させてしまうんだなぁ。

一つの正解しかないという厳しい道をわざわざ自分で作り出してしまうのかしらね。



運転する時の「見る」「座る」「ブレーキを踏む」などなど、最近気づいたことをせっかくなので、次回あたり、具体的に書いてみようと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?