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2023/03/31

あついちゃんへ

やほやほ!春だねぇ。
今日は午前中職場に出て、午後はテレワークするってんで今帰ってきたところ。

帰り道にちょっと大きめの公園があって、気持ちがいいので中を横切って帰ってきたりするんだけど、さっきも久しぶりに通ってきました。
その公園には桜の木がたくさんうわっていて、どの木も満開。
風に吹かれた花びらがずっと静かに舞っていて、歩道は一面ピンク色で、桜を見にきた人たちが散歩していてね、花びら捕まえようとしてる親子もいたな。

観劇できたとのこと、よかったねぇ!
あついちゃんがそうやって楽しそうにしているの、すきよ。
コロナ禍が始まった頃、なんか物わかりよく「現場に行けなくても代替手段があるので良い」みたいに思ってたけど、やっぱり現場は良いよねぇ。
年末に久しぶりにライブを見たとき、やっぱりこれは必要と思ったんだったなと思い出しました。

「かくこと」大事だねぇ!
そういう話、最近よく聴いているポッドキャストで話題になっていたな。
書くことっていうか、自分はそれがほしいんだって知ること、というか。
(となりの雑談の↓の回!)

突然話が逸れるけど、このポッドキャスト、今繰り返し聞いている番組です。
土出身のひと(家庭環境が泥だったひと)と、そうでない人で見えてる世界が違うよねっていう話をしていて、とっても面白いんだよ。
わたしは土なので、NOT土の人に見えている世界とわたしの視界があまりに違うことに愕然としたり、あぁわたしは土なんだよなぁって改めて知覚したりしています。
ここのところ何年か、自分が心地よく生きるやり方を模索しているような感じなので、お守りか教科書のような存在です。
機会があればぜひ。

閑話休題。

きみの「春に」の解釈、すごいねぇ!
初めて何のことを言っているのかわかった気がしたよ。
なんかもぞもぞするような、でもベッドに寝転がったまま動けなくて、でも動けないことに苛々してもいる、みたいな、なんかそういう日のことを思い出したよ。

あついちゃんの「春に」の具合はその後どうだい?
数日前に、なんか少しうわ向きになったような様子を観測した覚えがありますが、その後順調だといいな。
わたしの今年の「春に」は、なんかしたいけどできないうずうず!とは少し違って、結構自分の中に潜り込んでいってしまう系の、自分のことでいっぱいいっぱいというタイプのもやもやです。
いや〜〜〜、まじでわたしのこういうところもういい加減どうにかなって欲しいな〜〜〜!
だってもう30代も折り返し、立派な中年なのに!

今は車を手に入れたので、隣町のショッピングモールへ買い物に行ったり、海の方まで走らせてお魚を手に入れたり。
冬の間は、保管しておいたジャガイモやカボチャ、雪に埋めて甘くなったキャベツなどを少しずつ食べました。

「雪に埋めて甘くなったキャベツ」って、なんてうっとりする言葉なんだろう!
すっごい食べたい。そうねぇ、ポトフがいいな!笑
キャベツって雪に埋めて保管するんだって初めて知りました。
自然の冷蔵庫だ

海にも山にも行けるってとっても素敵ね。
「海の方まで走らせて」で、夏の快晴の空の下車で海に向かっているシーンが浮かんでしまって、のびのびしていて羨ましくなっちゃった。
桜きれいだっていったばかりだけど、もう夏が恋しくなってきたな。
あとはやっぱり車!自分で車運転してどこへでも行けちゃうのかっこいいなぁ。
車も移住も、まさかあついちゃんがねぇって、もう何回も言ったけどまたしても思ってしまうよ。笑
いろんなあついちゃんが見れて最高です、もっともっといろんな我々になっていこうね、たのしみたのしみ。

***

「親を辞められるか」の件を考えていたら、どうやら親としてのわたしが考える「親」って、<こどもが独り立ちできるまでのケアとサポートをする役目>ということらしいなと思い至りました。
(こどもとしてのわたしにとっての「親」は、わからないけど多分ちょっと違う)

「良き親であり続けるため」って言ってくれたけど、わたしがイメージするものだとちょっと違うかな…?
(他人から見た「良い親」を目指したくないという気持ちが強すぎて、単に言葉に反発してるところもあるかも)
良い悪いということではなくて、単に「役目を果たす、それを継続する」というのが近いかな。

例えば、風が強い雨の日に自転車を漕いでようやく家の前にたどり着いたとするじゃん。
レインコートは濡れて寒くて、もう既にかなり疲れていて、もう完全に暗いし家の中に早く入りたくて、家に入ったら入ったで今度はここから手洗い食事お風呂歯磨き寝かし付けの怒涛の数時間が始まるわけで、まぁとにかくこっちとしては「家に入る」一択、なのに、そこでこどもの「いや!スーパーいくの〜〜〜」(大泣き)が始まったりするわけよ。
そしたら、頑張ってなだめたり話を聞いたりして、今日はスーパーには行かない旨説明して、落ち着いたらようやく家に入れる。
そりゃそうなんだけど、「スーパーいく!!」が始まった時にやっぱり無の気持にはなるんだよね。
一回「あ〜〜〜もうやめたい」ってなって、いややめたらこどもが死んでしまうなと思い直して、ようやくこどもに向き合える、みたいな。
なんかそういうのを繰り返してるよ。
そういう意味で、親であること選び続けていて、それには意志が必要、と思ってる。
…めちゃくちゃ当たり前のことだな…笑

親であるわたしとしては、ここでケアしない選択をしても自分は死なないから、多分理論的には選べるよね。
(そんなの絶対嫌、ずっとずっとめちゃくちゃ大事にしたい!と思ってはいるが…)
今は体力とか気力とかの資本があるから継続を選べるけど、環境によって選べない時が来たら、それは虐待とかネグレクトとかだもんね。
そこまで行かなくても、こどもの人権を侵害してしまうことって簡単に起こりうるしな。
そういうふうに、いつだってそういう最悪と地続きなんだってこと忘れずにいなくちゃって危機感があるよ。

***

「こどもはやめられない」について。
そうか、きみはやめちゃえ!って思ってるんだね。
あついちゃんのいう意味でのこどもをやめる!は、必要な選択肢だと思う。

わたしはね、自分の親とは、もう生きてる間は会わなくていいかなとおもっているよ。
親のこと遠ざけるの、何も好き好んでしてるわけじゃないから、見切るにはやっぱり相応の痛みや諦めが伴ったな、って思う。
でも、決めたら楽になった。
あついちゃんと一緒だね。

やめられないと言ったのは、自分のなかにこどものときの自分がいて、まだ悲しかったり怒っていたりするからかな。
じぶんのこどもにするみたいに、「そうかそうかよしよし」ってしてあげることにしてる。
あと、こどものときの親の話し方とかがふと口をついて出たりして、そういうときに「ああこどもだな」って思ったりするよ、っていう意味でした。

これから私が親になるとしたら、良い子であろうとするのはやめていいよという「選択」を子に残したいと思う。

うんうん、そうだね、わたしもそう思う。
わたしのことばでは、「正しくなくていいよ」って思ってる。
こどもが正しい(挨拶ができるとかおむつが早く外れたとか)ことをしてくれるとなんか安心してしまうけど、正しいとかはやく〇〇できるようになるとかよりも、その人らしく大きくなっていってほしいな、それを肯定して行きたいなって思ってる。

***

ねえ、結構長くなってしまった…すまない…💦
交換日記だから、「この件ちょっと考え中なので今回はパス!」とか、「今日ちょっと忙しいから次回…!」とかもどんどんしていこう〜
気楽に!
(と言いながら、これも2回書き直した笑)
わたしももっと気楽にかく!

なんかドラマとかの話もしよ、
あっ急に話変わるけど、『大奥』『ブラッシュアップライフ』が立て続けに終わってしまってさびしいよ〜〜
大奥なんてラスト2回しか見てないから遡って見たい!
冨永愛かっこいい!!

ではまたね🤲

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