形而上学的アオドリ

____私にとっての「アオドリ」とは。
 「アオドリ」それ自体何なのか、私にも掴めていません。
ほんとうのところ、ここにいるメンバーの誰もがアオドリの実態についてよく掴めていないように思います。
それはアオドリが、例えば“椅子”のように、はっきりとした形を持っているものではないから。アオドリには集まれるような拠点もありませんし、今はオンライン上のやりとりが多いです。
 しかし、そこには「アオドリ」を合言葉に繋がっている人たちがいて、その人たちが日々何かを見つけようと、もがいています。もちろん、ただそこにいるだけという人もいます。でも、メンバー自体がアオドリか、と言われればそうではありませんし、だからといって、アオドリを作り上げているのはその一人ひとりに違いありません。では一体アオドリとは何なのでしょう。


 自分なりの答えとして、アオドリとは私たちが“そこにいる”ということだと思います。

 先ほども言った通り、私自身はメンバーだけれど、アオドリではありません。でも、私が“そこにいる”ことでアオドリが存在できます。
 そしてアオドリはチームや会社ほど団結した集団ではなく、「寄り添う」ことが理念の一つでもあります。だから、そこで何かしてもいいし、しなくてもいい。何かやりたくなった時には、一人でやっても、“そこ”の誰かと一緒にやってもいい。

 ここまで聞くと、自由すぎると思われるかもしれませんが、アオドリの目指すゴールは、一人ひとりのやりたいことに委ねられます。つまりゴールさえないんです。

 だから、何かやりたいことを見つけるまでアオドリとして潜んでいればいいのです。そして、ただ“そこにいる”だけ。アオドリは私に何かを求めたりしません。ただ、私が羽ばたけるよう「ここにいてもいい」とじっと守ってくれています。
 アオドリのマガジンでは、メンバーがそれぞれ自分にとっての「アオドリ」について書いています。
それを見ても分かるように、アオドリは時に空間であり、時に道具であり、時に人のようでもある、形づくられないものだと考えています。

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