小説のはなし2-檸檬-

今回は梶井基次郎の『檸檬』を読んでみました。
この作品は教科書に載るくらいの有名な作品ですね。

でも実際高校生の頃、この檸檬がどうして評価されるのか、そしてこの物語の意図はなんなのかということを考えもせずに、ただ「これは何を指しているのか」という問いに対して、文脈から答えを導き出す、という作業的なことしかやってきませんでした。

そして今回改めて読んで気づいたことがあるので、ここに書き連ねていこうと思います。


感情を「行動の比喩」で描写


まず、このお話は短編らしい短編というか、ある人の人生のほんの一節だけを切り取った、なんでもないお話ですよね。
だから感動するとか、教訓が得られるとか(隠れた教訓はあるかもしれないけど)そういう視点で見る小説ではないのです。いわゆる純文学です。

高校生の頃って、小説にはストーリー性があるものだと思い込んでいたので、この作品はあまり面白いとは感じませんでした。
面白いと感じる前に終わってしまった…。って印象があります。

だけど、この短い一編こそが彼の人生の中の一番彼を表している部分なのかもしれません。特に内面を表しているように思います。

現実世界で外見を見ることはそう難しくありませんが、内面をみるのは相当難しいですよね。でも小説はむしろ逆、内面を見ることが得意です。そして、この小説においては特にそうです。

この作品の冒頭部は感情を「宿酔があるように」など、別の具体的な症状で比喩し、実際は起こっていないことで埋め尽くされた文章ばかりです。

これは通常、小説でしかできないことです。
普通、私たちが誰かの感情を知ろうとするときは「相手の行動から」読み取ろうとします。
しかし、この小説では、感情を「行動の比喩で」伝えようとしています。だから実際にはその状況は起きていません。彼の頭の中で「錯覚」によって起こしています。
これは『檸檬』に限られた特異的な部分だと思います。
他の小説でも日常生活と同じように、「人物の行動が感情を伝える」ことが圧倒的に多いですからね。




そして気づいたこと二つ目!


「感覚表現」が多い。

1視覚としての色と形
檸檬の黄色もそうですが、その前にも花火の「赤や紫や黄や青」だったり、「琥珀色や翡翠色」の香水瓶だったり…それに「絵の具」を使った比喩が多くて、読んでいて、かなり色彩の鮮やかさを感じました。
また形についても檸檬の紡錘形を大変気にしていたように感じます。

2皮膚から温度の感覚
この人は肺尖カタルという持病で、基本的に体温が高く、檸檬に触れたときの冷たい感覚を気持ち良く感じていました。

3嗅覚
檸檬の香りを嗅いで「カリフォルニアが想像に上って来る」とか、そのおかげで深呼吸ができたりとか、これもまた肺尖カタルによってうまく呼吸ができなかったのでしょうが、檸檬の香りで少しはマシになっているのだと思います。

4重力の感覚
「つまりはこの重さなんだな。」という名台詞からもわかるように、檸檬の重量感でさえ、この人の病状を緩和する役割を果たしています。
彼によると、「この重さこそ常づね尋ねあぐんでいたもので、ーすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さー」らしいです。


だけど、この文章の最後で

ーなにがさて私は幸福だったのだ。

と気づいている部分も見られます。だから、これらの感覚は錯覚的なもので、彼は感覚理想像を創造していたのかもしれませんね。
「檸檬がぴったり」なのではなく、「檸檬をぴったりにした」という感じでしょうか。“なぜ檸檬なのか”ということはまだ別に隠されているのかもしれませんが…。でも梶井自身、檸檬を持ち歩いていたそうですね。


物語のキーポイント「色」「美術」

で、このたくさんある感覚の中で、一番大事なのは、おそらく「視覚」でしょう。
それは、丸善のシーンからラストシーンにかけての文章でわかります。
丸善のシーンで出てくる感覚としては
「奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。」
「その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘型の身体の中へ吸収してしまってー」
とあります。また、ラストシーンでは
「黄金色に輝く恐ろしい爆弾」
「活動写真の看板画が奇体な趣で街を彩っている京極」
と色にまつわることがたくさん出て来ています。

また丸善で積み上げた本も画集であり、絵の具という言葉も多用していることから、何か「絵画」に関係するのではないでしょうか。
丸善のシーンではアングルの画集が出て来ています。ここでは
「日頃から大好きだったアングルの橙色の重い本までなおいっそう堪えがたさのために置いてしまった。」
とあります。

ドミニク・アングルは『グランド・オダリスク』という骨格の狂った女性の後ろ姿の絵画で有名なフランスの画家です。
そしてアングルは写実的でありながら、自分の理想を作品に取り入れることで有名です。
そしてこの作風を言い換えるとすると、「現実がすべて美しいのではない」ということです。想像の中でしか作り出せない美しさや世界観がある。それはこの小説の「錯覚」とも共通しているのかもしれませんね。

かなり雑に気づいたことをまとめました。
ちょっと、これを題材に文章を書かなきゃいけないので、もう少し読み解いていこうかなと思っています。
個人的には美術との関係を疑っています。そして「美しさ」という言葉「美学」についてなど…もしくは、病気と美術との関係…?
また何かわかれば、Part2として載せる予定です。


最後まで見てくださってありがとうございました。

ではまた次回更新します。

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