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旅の菩薩

三月の終わりに近くなって、私は七里ヶ岩の先にある、すらりと背の伸びた観音さまの背中が見たくなる。
はるか昔、八ヶ岳の先端が崩れ、甲府盆地まで雪崩れ込んだ溶岩が南北に長く伸びる台地を作った。やがて時が経ち、人が周りで暮らしはじめ、その形が韮の葉に似ていることから韮崎という地名になった。今でも、その歴史の跡を八ヶ岳の山頂が窪んでいることから確認できる。
観音様は、指をかるくつまんで遠く富士山に向けて祈っている。足元に釜無川が流れる。山の麓に続いていく道のそばに桜が咲いている。
つぎはぎだらけの作務衣に風が吹きつける。三月で日差しが良いとはいえ、これだけだと冷える。
「ねえ、陽さん。俺、温泉入りたいんだけど。どこかいい温泉知らない?」
翔太は、観音様を見るのにも飽きたようで、私の袖を引っ張って話しかけてきた。
「行くかもしれんし、行かないかもしれないな」
「ええ~」
翔太の声が、冬の晴れた空に吸い込まれて行った。
「そしたらさあ、美味しいものはぁ?」
強いて言うなら韮崎で美味しいものは野菜か。山梨名物と言ってもほうとう屋さんはあまり見かけない。果樹園は山のあたりにある。ワイナリーもあるが、翔太にはまだ早い。
太陽の光に照らされながら食べ物を想像していると食欲が湧いてきた。中央線に一時間半ほど座ってここまで来た。そろそろ栄養補給が必要だろう。

七里ヶ岩から降りてすぐ、また韮崎駅前に戻って、カレーうどんを食べた。翔太は慣れないのか、食堂で注文する仕方がよくわかってないようだった。
翔太は久しぶりにあたたかいものを食べたようで、カレーうどんの味と熱さに夢中になって、何も話さなかった。食べ終わって店のガラス窓の外を見ると、ベビーカーを引いた夫婦が歩いていた。シャッターが並んでいる商店街を抜けた外れに行ってやっと見つけた、この店の窓際だった。前に来たときも韮崎はずっと晴れていた。車もなければろくに移動できない町なのに、窓から見える車道は静かだった。
カレーうどんのような味が濃くて辛さもある食べ物を食べると、一気に舌から現世に戻されるような気がしてくる。腹が満たされて眠くなってくる。二人とも、食欲はあったが、疲れていた。
財布を出して支払う。千六百九十円だった。財布を見た翔太が店先で「金持ってるじゃんかよお~」と文句を言った。声が静かな道に響いた。
「今から温泉に行かないか?」
そういうことじゃないと翔太が文句を言いたげな目つきで私を見る。
私は歩き出してガード下を抜ける。翔太もとぼとぼついてきた。日差しが気持ちいい。観音様の足元はひたすら平和だ。
また七里ヶ岩の下を通って、観音様が眺める方角に行く。駅のそばの商店街はひっそりとシャッターを閉じている。この辺りで伝わる民話をモチーフにした狐や牛の絵が、原色で描かれている。レンガが敷かれた道が続いて、橋のそばに市役所がある。韮崎でも一際大きな建物だ。
お腹いっぱいになって安心しているのか、翔太は鼻歌を歌いながら歩いている。時々強い風が吹く。
橋の上に立って風を受ける。真下には釜無川が音を立てて流れる。正面には鳳凰三山がある。右手には八ヶ岳がある。左手には富士山がある。山々がりんとした空を縁取っている。
川の流れが澄んでいて、ここに来る前にいた東京から電車に乗って、またもう一つの極楽に来たかのようだ。ここにあるもの、すべてしっかりと光を受け止めて放っている。空気は澄んでいて冷たく肺に染み渡る。
翔太は川底の岩を見ている。
「陽さん、どこに向かっているの」
「自然な方に向かおう。」
旅なのだから、次にどこに行くのかは決めなくてもいい。

道は山の方までずっとつながっていて、川がそれに沿って走っている。歩くと数メートルごとに彫刻がある。不思議な形をした幾何学模様や、人が手を伸ばした形があった。川沿いの家はのどかで、車道の向こうは田畑が広がっている。
「ああ、これはいいね」
翔太が立ち止まった。そこには金色の人形の彫刻が立っていた。羽が生えているようにも見える。鉄くずや、釘が組み合わさっているようにも見える。それらは、太陽の光に照らされて細やかな金色の輪郭を描いている。
翔太はポケットに手を入れると、スマートフォンを取り出して写真にそれを映した。画像に撮ってどうするんだと私は思ったが翔太は満足そうだった。私はシャッター音を聞きながら、次に翔太が話すことを考えていた。
のどかな景色が続いていた。芸術の道の終わりにある大村博士の金色の像まで翔太は、カシャカシャと写真に撮っていた。
「なあ、陽さん、生まれてきたってことは。」
翔太はまだ宿に気がついていない。
「またこの世界に、生まれてくるってことでもあるの?」
「まあ、そうだ。」
「じゃあ陽さんは、何回目だい?」
「何回かは、考えたことがない。」
「気にならないの」
「ずっと繰り返される。それだけだから」
「でも、陽さんは修行をして、観音様になろうとしてるじゃないか。このままだとなれないよ。」
観音様になろうとしているわけではないが、翔太の言っていることは筋が通っている。
「いや、観音様じゃなく何かになろうとしているのだと思うが、それがいつだかわからない。」
「はあ、そんなんでよくそれを修行というね。」
「修行でもなんでもなく生きてる翔太のほうが気楽そうだな。」
そうしているうちに、温泉宿の正面にたどり着く。入ると、思ったよりもきれいな玄関で驚いた。蛍光灯の光を反射して、床はまだ新しかった。見た目は老舗の温泉旅館だが、地元の人たちは、銭湯として使うのだろう。靴箱には、先客の靴が置かれていた。
入場券を買って脱衣所に行く。翔太は服をさっと脱いで中に入っていった。私も続く。
汗を流して中の湯に入る。ここは温度が高い。翔太は、広い湯船で足を伸ばしてくつろいでいる。近所に住んでいるらしい人が、各々目を閉じて湯船に浸かっている。中の電気に照らされた透明な湯がにささやかな光が散乱して湯気をさらに美しくしている。
そろそろ外にも出ようと思って立ち上がると、翔太もついてきた。外は檜の湯船に、また透明な湯が張ってある。空は夕暮れで黒い。檜の香りがして、私は湯に入る。既に湯で温まった体にはぬるい。まるで体温と同じ温度の水に入ったかのようだ。それで一層水の質感が際立つ。温度を感じない湯は、柔らかく体を優しく包んでくれる。翔太も何も言わないが、場所を見つけて座った。
私も湯船を枕にして先客と同じように体をあずけた。こうしているといつまでもここに居られる。三月の冷たい風も、ここでは心地よい。眠りそうになっている翔太に話しかけた。
「韮崎はいいだろう」
「サイコーだ。」
笑ってから翔太は目を閉じた。
こうしてずっと浸かっていると、ぬるい湯なのに体がポカポカと温まってくる。次第には、体の芯から熱くなってくる。
夕食を食べようと外に出ると真っ暗で星が見えた。宿の食事どころで、すき焼きを食べることにした。翔太は、何枚も肉を食べた。また、甘くて味が濃い食べ物に舌が染まっていく。
布団に入るとこれ以上ないぐらい幸せな気持ちになって、かえってどうすればいいのか分からなかった。眠くなったら寝る、ということができない。翔太はスマートフォンをいじっていたかと思うと、眠っていた。
私は窓際で瞑想をすることにした。夜は静かだった。ときどき、遠くから電車の音が聞こえた。
翔太の寝顔は安らかだった。前歯に茶色い肉が挟まったままになっていた。
次の朝も晴れていた。窓から朝日が真っ直ぐに畳と布団を照らしていた。布団は白く光っていた。
「はあ、今日も生きなきゃならんのか。」
翔太は、起きたばかりで機嫌が悪い。
「眠い」
布団の中で起きない翔太から、布団を奪って剥がした。起きなければ何も始まらない。
「鬼かよ」翔太は言った。「仏だ」と、私は返した。
「仏なら寝かしてくれよ」
翔太がぐずりながら、もぞもぞと起き出してきた。

韮崎市移住生活推進課の、筧さんがお試し住宅制度について教えてくれた。韮崎に住む予定の人に向けた移住を体験できる制度のことだ。二週間光熱費無料で市の公営住宅に住めるらしい。
ニコリと呼ばれている市民交流センターのカフェテリアで翔太と並んで説明を受けていた。翔太が、途中でお腹すいたと打ち明けて中断した。筧さんは、笑って「コーヒーでもどうぞ」と言ってくれて、私も一杯飲むことにした。筧さんは紙に印刷した資料を机に並べたまま、わたしたちが朝食のパンを選ぶのを待っていてくれた。
「韮崎には、どういった御用で?」
「観音様に会いにきました」
「そうですか。ありがとうございます。」
筧さんは自分のことのようにお礼を言う。
「はい。昨日見てきました。」
「ねえ、おじさん。韮崎って美味しいものないの?」
「美味しいものかぁ~」
筧さんは上を向いて考えた。
「韮崎のこっちの方には、果物の農家があるんですよ。ぶどうとか桃とか。稲作もやってて田んぼもありますよ」
筧さんが指を差す。壁に貼られた韮崎の地図を翔太と二人で見る。
「あっ、陽さん」
声がして振り返ると山田さんが手を振っていた。前に私が韮崎に来たときに泊まる場所や韮崎のお店などを紹介してくれた人だ。当時は初々しく感じたが、今日は寒さに備えたダウンジャケットとズボンで、すっかり韮崎に染まっている感じがした。
「元気だったあ?」
山田さんはカフェテリア全体に聞こえるような声で話し始めた。
「はい。お陰様で」
「陽さん、それどこの子?」
「翔太だ。一緒に旅をしている。」
「へえ~。何才?」
「さあ?」
翔太はメロンパンを口にしながら首を傾げた。
「え~教えてくれないのー?」
山田さんは、わざと不満そうに顔を膨らませて翔太と向き合った。
「だってほんとに知らないんだもん。」
「えっ? 陽さんも一体何者だかわからないし。お試し住宅借りるんだったら住所とか必要じゃない。」
山田さんは、黙り込んでいる筧さんの後ろに回って彼が机に並べている書類を顔に近づけて読んだ。
「うん。やっぱり、というか当然個人情報は要るわよ。」
「それが問題でも?」
筧さんは、書類で顔が隠れた山田さんを見上げて聞く。
「うん。陽さんは戸籍持ってないから。」
「えっ、それって。」
「はい。この世のものではないからです。」
私はいつもどおり、説明を始めようとした。
「陽さんは仏さまだよ」
翔太は手を挙げて、このときばかりは誇らしげに叫んだ。
山田さんは、ちょっと驚いてから私の方を見て笑い、筧さんはまだよくわかっていないらしく書類に手をおいたまま、首を上に曲げて山田さんを見上げて、それから私の顔を見た。
「はあ、だから坊主なんですか。」
筧さんは頭を手のひらでなぞる動きをした。私の髪型に納得したようだ。だから坊主にしているわけではないのだが、まずは頷く。
「仏様って、お地蔵さまとか、それこそ観音様とか。」
「いえいえ、恐れ多いお方とは比べようもありません。私はただの修行中の身です。」
「陽さんは菩薩だよ。修行中。」
山田さんは笑いながら資料を、机の上に置いた。紙には、「お試し住宅制度」と、大きく印刷されていて、横には魔法のステッキを持ったカエルの妖精ニーラがやんわり微笑んでいた。
「はあ。」
筧さんは、きっかけをなくして悲しいため息をついた。翔太は、そのうちにメロンパンを平らげてしまった。お盆に落ちたチョコチップをつまんで口に入れると、指ついた砂糖をなめて、いちご牛乳に刺さっているストローを口に含んだ。含みながらすこし遠慮がちにパン屋の方を見て並んでいるパンたちをじっと見ていた。私は冷めてきたコーヒーを一口飲んだ。苦味と酸味が思ったよりも強く、むせそうになってしまった。
「まあ、私のところに泊まったら?」
「いや、それは。」
「シェアハウスだから一人二人増えてもいいよー。こんな時のために客室もあるしね。」
「旅館がいい。陽さん金持ってるんだから。」
「いやだ。それでは修行にならない。」
「じゃあ、なんで昨日は旅館だったんだよぉ~」
翔太は、最後の抗議で足をバタバタさせた。
「だったらそれこそシェアハウスでしょ。キッチンもあるし。精進料理作ってよ。」
山田さんは、翔太の肩に手を乗せた。

山田さんが運転してくれた車から出たとき、空の色は朝よりも青く濃くなっていた。建物の中には温かい空気に年季の入った木の香りが漂っていた。翔太は、あれほど旅館がいいと言っていたが、いざ着いてみると新しい環境にわくわくしているように見えた。
山田さんは、ふつうは出さないような声で「ただいまー」と大きく呼びかけて「仏様連れてきたよ~」と他にいるだろう住民に伝えた。反応は返って来なかった。
「寝てるみたい」
履物を変えてスリッパを履く。
翔太は、踵がふまれてボロボロになった運動靴を脱ぎ捨て玄関に上がった。来客用のスリッパはすべて黒いつやつやしたもので統一されていた。
「まずは部屋を案内するね。それから買い物ね」
山田さんは、スリッパを鳴らして階段を登り始めた。階段の中央部分は擦れて木が白くなっていた。
「やっと旅行っぽくなってきたぁ」と翔太が言った。階段を登る足は白く健康に育っていて、でも桃色の爪の間には汚れがあり、足の指の間には垢が溜まっている。
踊り場で左に九十度折れると窓があり、外の日差しが見える。窓は掃除されていなくて、枠にホコリと蜘蛛の糸が溜まっている。
「陽さんは、なんでまた韮崎に?」
「修行で回ってるんだがな。翔太を拾ったので連れて行くのにちょうどよかった。」
「拾ったぁ?」
山田さんは不思議な声を出した。「それ、誘拐じゃないよね。」
階段が終わり、二階に着いた。アジア風の原色の暖簾をくぐると広いリビングダイニングが広がっていた。ダイニングテーブルと椅子が左の手前に配置されていて、右にはカウンターとキッチンがある。キッチンの前には絨毯が敷かれていて、大きなソファが壁に沿って直角に置いてある。大きな窓があり、カーテンが閉まっている。窓際に観葉植物が鉢に植えられている。
「子供拾ったら警察に届けたほうがいいよー。まぁ、ここがリビング。」
「わお~。いいね」
翔太は、入ったところにすぐある本棚を眺めはじめた。
「今はまだ寝てるな。だいたいみんなここで作業したり、麻雀したり集まって酒のんだりしてる。」
翔太には興味がなさそうな趣味の単語が、彼の耳を通り過ぎていった。彼は、気になる本を見つけたようで、背伸びして取り出そうとしている。うまく取り出せるかどうか、山田さんが私の方を見るのをやめて翔太を見守っている。翔太は、足をこれ以上ないほど背のびして一番上の本を手に取った。絵が色鮮やかに表紙を飾っている。ピンクと青の花びらが散らばったデザインだ。マンガのような軽い紙が綴じられている。紙は色あせて黄ばんでいる。
「ああ、それ私がこっちに来たときに持ってきたやつ」
山田さんはすぐに反応した。翔太は、「えっそう?」と言って表紙に積もったホコリを手で払った。「ふーん」と読みもせずにパラパラと本をめくった。
「あー懐かし。見せて」
「はい」
翔太は、惜しみなく素直に手を出す。山田さんは受け取るとパラパラとめくって眺めた。
「ここにあったの忘れてた。」
「面白いの?」
翔太は、山田さんが答えてくれるかどうかを少し疑うようにそっと言った。
「面白い」
山田さん、ページを一枚ずつめくって読み出している。
「好きなの?」
「うん。大学生のころ好きだった」
山田さんは、漫画をぱたんと音がなる勢いで閉じて、棚の方に歩み寄り翔太がまた手に取りやすい位置に寝かして置いた。他の本たちは隙間なく詰まっていて立てて置くことはできない。
「じゃあ部屋はこっち」
ダイニングテーブルが置いてある方にもう一つ扉があった。開けると、部屋の奥行きと同じぐらいの空間があって、床に布団が畳んであった。
「ここに荷物とか置いて、で、寒かったらこのヒーター使ってもいいから。」
床は木の板が張ってある。翔太は、肩にかけていたバックの紐をつかんだまま、部屋を見回した。布団と床以外はなにもない単純な部屋だった。
「はい。で、」
山田さんは、腰に手を当てて私たちを見た。特に置く荷物もない。
「荷物はいい? じゃあ、こっちが洗面所」
山田さんは、部屋から出ていく。私達も付いていく。リビングを通り、部屋を抜けて階段のそばの廊下の突き当りにドアがあり、開けると、風呂があった。タオルの使い方などルールがあるらしく、それを教わった。
テキパキとした説明に、私たちはうなずく。
「じゃあ行こうか。ちょっと待ってて。あ、やっぱり来て」
山田さんは、廊下をさらに奥に進んでいった。ついていくとドアが両脇に揃った通路になっていった。一番手前の部屋が山田さんの部屋だった。ドアを開けると、机やベッドや服が小さなスペースに詰まっていた。
「まあ、これが部屋。ちょっと待ってて」
山田さんは、手のひらをこちらに向けた。私達は部屋の外に出た。閉じられたドアの向こうで山田さんを待った。
山田さんが部屋から出て、私達はシェアハウスを出発した。山田さんの車に乗り込む。
「観音様、見た?」
車は七里ヶ岩の先端に向かう。
「みたよー」
私が答えようとしたら、翔太が先に答えてくれた。
「オーケイ、もう一回見よう」
家々の並びの奥に観音様の背中が見えてきて、青い空が広がっている。
車が観音様の足元まで到着すると、七里ヶ岩を下るスロープを降りる。観音様の穏やかな表情が少し見えた。

ショッピングセンターには、明るい照明に品物が並んでいて、音楽も天井から聞こえてくる。百円ショップなどの日用品コーナーもあり、上の階層には、衣料品売り場もある。町の一番大きなショッピングセンターで、韮崎で必要なものがほとんど手に入る。逆に言えば、ここにあるものが、生活のほとんどを構成しているといえる。
山田さんの引くカートについて行き、食料品売り場に進む。
「何食べる? 精進料理? 作れる?」
「まあ、簡単に味噌汁から作るか。」
「ええ~っ。」
翔太が残念そうに言った。
「唐揚げ食べたいな。」
「いいね唐揚げ。みんなでも食べられるし。」
「これって夕ご飯?」
「お昼。」
「山田さん、お仕事は?」
「まあ~土曜日だし。好きなときに働くよ。」
そういえば、こっちにきてから曜日の感覚が抜けていた。
「陽さんは、いつまで韮崎にいるの」
「さあ、知らん。」
と返したら山田さんは、「えっ」と立ち止まってカートを引くのをやめた。
「のんきやね~」
「まあ、そうだな」
山田さんは、たまたま立ち止まった場所においてあった新玉ねぎを手に取った。
「玉ねぎが安いな。」
私は玉ねぎを使った精進料理を想像した。そもそも玉ねぎは匂いが強いから、精進料理には使わない。味噌汁に入れるしかないだろう。久しぶりに食べる玉ねぎの味は、想像がつかなくて、このスーパーに売っているものをいちから食べ直さないといけない気がした。

シェアハウスに戻って、キッチンに食材を並べる。鶏肉と、新玉ねぎと新じゃがと、安く売っていた野菜。調味料は、シンクのカウンターに余るほど置いてあった。
「今のうちから切っておきたい。鶏肉も漬ければ味がよく馴染むはず」
山田さんの方を見ると、「えっいいの? めんどくさくない」と驚いていた。
「いや、やってしまおう。翔太も手伝え」
「はあ? 漫画読みたいんだけど」
「今のうちからやると、たくさん漫画が読めて、翔太が食べたいと言った揚げも美味しくなる」
「ぐっ」
「いいから手を洗って手伝え」
「はいはい、私もやるか」
山田さんが袖をまくり始めたので、翔太も手をまくって手を洗い始めた。
新玉ねぎと、新じゃがを洗って切る。旬の野菜は包丁からでも、生命力が伝わってくる。手を切らないように見守りながら翔太にも玉ねぎを切ってもらった。
山田さんには、炊飯器をセットしてもらった。早めに水と米を入れたら予約した時間にちゃんと炊きあがるらしい。「せっかく陽さんも来てるんだから」と言われて私がスーパーから担いで持って帰った米の袋をあけて、米びつに入れる。
「食事代は、割り勘ね。月に精算ことになってる。」
「ふむ。」
「陽さんも一ヶ月居たら払ってね」
「わかった。」
「一ヶ月もいるの?」
唐揚げの肉を揉み込みながら翔太が、声を荒げた。
「手が冷てえ!」
返事を待つ前に、肉から手を離して水で手を洗う。
「ふふ」
山田さんは、翔太の様子がおかしいのか、笑って見守っている。
夕ご飯の下準備が終わって、山田さんは部屋に戻った。私達も用意された部屋に戻り、床に座った。改めて見ても、床に布団がおいてあるだけの部屋だ。
「唐揚げ食べたいなー」言いながら翔太が畳まれたままの布団に横になった。私も下準備しながら食べてもいいと思った。でも、下準備ではお腹は減らなかった。
「散歩でも行くか」
「えー」
翔太は、布団の上で寝転がり、気だるい声を出した。
「つまらなかったら、散歩するなり漫画でも読むなりするんだぞ」
「はいはい」
しばらく翔太を放って置くことにして、私はシェアハウスを出た。

またニコリまで歩いていく。観音様の背中を通って、七里ヶ岩を降りる。歩きの速さで韮崎の土地感覚を思い出す。車がないとやっていけない、とみんな話す。前に行ったときはニコリで自転車を借りていた。
韮崎中をニコリの赤い自転車で回っていると流石に声をかけられるようになった。自転車を停めに返す時間帯になると何故か私を待つ人の列がラウンジにあふれるようになった。
筧さんに、「また毎日借りるなら、月額サービスでどうですか?」と聞かれた。
「陽さんが帰ってきたって聞くと、集まる人もいるだろうなぁ」
筧さんは、まだニコリの移住相談窓口に座っていて、パソコンに向かってなにか作業をしていた。パソコンに向かっている人は何をしているのかよくわからない。立ち上がった筧さんに自転車を借りたいと言うと、嬉しそうに微笑んでくれた。
「自転車空いてますし、陽さん専用に一台置いておいてもいいですよ。」
「うーむ。」
筧さんにそこまで言われてしまったら、態度を決めないのも申し訳なく思えてきた。
「車も持っていないし、韮崎を移動するのに自転車は必要だ。もし借りることができれば助かるが。」
「どうぞ、お借りください。」
「ではお言葉に甘えて。」
「どうぞどうぞ、あ、じゃあ鍵を渡しますね。」
筧さんは、机の下の引き出しをゴソゴソして、鍵を取り出した。カウンターから出て、私を外に案内してくれた。風が強く吹いて、日差しも強い。三月か二月のこの冬と春の間は、洗濯が物凄く良く乾く。ニコリの入り口で出迎えてくれるニーラの隣には、和服を着てどっしり構えた宝塚の創設者の小林一三の像がパネルになって置かれていた。韮崎駅ロータリーの白い屋根が青い空の下で映えていた。
手元の鍵に貼られている数字と対応する自転車を見つけ、筧さんがロックを外す。いつもしているかの様に滑らかな動きで、ハンドルを持ち上げ、軽く地面にタイヤをぶつけた。そしてブレーキも素早く握り、点検している。その動きが、ちょうど前に来た時と全く同じだったから、懐かしくなった。赤い自転車は、前に来た時に見た輝きを少しも失っていない。あまり使われていないのか、それともよく整備されているのか。
「どうします? 持ってますか。カウンターに返しますか?」
「失くすと不安なので、預けます。」
「では、陽さんのこと、伝えておきます。」
「ありがとうございます。」
筧さんに見送られながら発進して、私は自転車を漕いだ。心の中に、桜色の花びらが敷き詰められているのを感じた。私は、あの桜の木を忘れていない。忘れられないのだと気がついた。すぐに、見にいくなら翔太を連れて行ったほうがいいと思ったが、今更戻っても彼が出かける気になるかわからない。少し昼までに戻ってくるには時間が足りないかもしれないが、記憶を頼りに向かってみることにしよう。
また駅の方から山並みが見える道を進む。釜無川を越えて芸術の道を通る。風が強く吹き付けるが、電動の自転車は軽やかに進む。
芸術の道が終わると、土と堆肥の匂いがして、牛舎や田んぼが見えてくる。
韮崎を大きく貫く広い道路に着く。ここから道に沿って走る。どこまでもつながっているかのような道だ。時間の感覚が鈍ってくる。かなり長く時間が経ってしまったような気がする。
腹も減ってきて、焦る。畑を照らす光が明るくなっていく。稲穂が刈り取られて黄色く光る畑が広がっている。大通りを外れて静かな道に入った。カメラを抱えている人が歩いている。
「ああ、桜ですか?」
「はい」
彼は顔を上げて応えた。多くの機材が入っているだろうその鞄で重い体をさらに曲げて私を見た。少し声をかけるだけのつもりだったのに、そのゆっくりとした動作に自転車を止めてしまった。彼は、若かった。声はぼんやりとしていたが、しわがれているのではなく、はっきりと話そうとした意志を感じた。髪はたてがみのように顔の周りをうねり、包んでいる。
「どうして桜を、」
彼は私の顔を見てしばらく応えられなかった。
「どうして、ですか?」
彼の沈黙の長さに、私は自分の問いかけの怪しさに気がついたら
「何となく、桜が見たくて」
桜を見たい理由など、はっきり言えない。私は、何となく桜を見たい。その何となさに耐えられずに、代わりに彼に聞いたのだろう。野暮な質問をしてしまったことを後悔した。彼は、少し笑って歩き出した。
「じゃあ」
「じゃあ、お先に」
私は自転車を漕いで彼を追い抜いた。電動自転車のペダルがぐい、と背中を押した。
桜は田んぼに囲まれた丘の上に立っていて、畦道にはカメラを構えた人がいくらか見ていた。田んぼの中には入っていかないでください、と赤いコーンとロープで線が引かれていた。これまでの景色では、信じられない人だかりだ。祭りのようだった。舞台には、堂々と手を広げて立つ桜が立っていた。桜は陽の光を浴びて、透明に光っていた。桜色に薄く光を蓄える花弁を身に纏って、静かに立っていた。静けさがただ美しかった。桜が散ってしまうことなど想像もできなかった。風が吹けば、花びらが散り、田の上に桃色の足跡が残される。その瞬間を逃すまいとシャッターを切る音が拍手のように鳴り響く。背景には八ヶ岳が聳えている。青い空に青い山が立っている。
こんなに美しく咲くのにどうして、全て散るのだろう。きっと悲しいことではないのだ。花びらはただ落ちるに従って、何も抵抗しない。人が彼を支えるための添え木を立てなければ、もう踊るのをやめていたかもしれない。それでも彼は何も後悔しないし、何も惜しみはしないだろう。支えられながら踊ったとしても、美しいのは、どうであろうとそれが彼の全てだからだ。

帰って、玄関の扉を開けると、料理をする匂いがした。スリッパに履き替えて階段を登って、ダイニングにつくと、テーブルの上にはもう料理が揃っていた。唐揚げはすっかり全て揚げられ、味噌汁の大きな鍋からは湯気が上がっていた。炊飯器から直接出された釜がまな板の上に乗せられ、しゃもじが中に入っている。そのほかにもサラダや卵焼きや、野菜炒めが大皿に載っている。テーブルに座る人たちが私の顔を見つめた。
「はじめまして」
挨拶をしたが、山田さんと翔太以外は怪訝な顔で、反応は薄かった。
「陽さん、どこ行ってたの?」
山田さんが、自分の隣の椅子を引いて私を案内した。
「桜を見に行っていた」
「桜って、陽さん好きだねぇ。」
山田さんは軽くのけぞって笑った。
「みんな待ってたけど、食べ始めちゃった」
「いえ、待たせて申し訳ない。」
机につくメンバーは箸を持ったまま、私を見つめて動きを止めていた。翔太は、山田さんの向かい側の中央に座っていて唐揚げを頬張っていた。
「いいから座って。」
私は山田さんの隣に座った。
「これが陽さん。韮崎で修行中なんだって。」
「修行って何の?」
翔太の隣に座っている、山田さんよりも少し若い感じの青年が笑った。
「説明してあげて。」
山田さんに言われて、私は口を開く。開こうとしたら、山田さんが席を立って、机の中心にある箸立てから私の分を取ってきてくれた。私はそれを受け取りながら話し出す。
「陽と言います。」
山田さんはまた席を立って、私の目の前の茶碗を取って、ご飯をよそい始めた。開いた炊飯器からほのかに米の香りが立つ。
「訳あって、この世で修行をしています。」
と言っても案の定、理解できた人は、山田さん以外にはいなさそうであった。さらに言葉を連ねても、わかってもらえる気がしなかった。私は手を合わせて、よそってもらった白米と味噌汁をいただくことにした。味噌汁は新じゃがと玉ねぎの甘みが濃縮されていて、目が眩むほど美味しかった。
「どういうこと。あの世から来たってことか?」
「うーん。あの世とはちょっと違う気が」
私の代わりに山田さんが答えた。
「あの世の、あのってどのあの?」
「天国とか、地獄とかがあるところ」
「あの世といいますが、川の向こう側みたいなもので、あまり区別はありません。」
私は答えた。するとテーブルに座った翔太以外の人たちが手を止めてこちらに目を向けてきた。
「いつからか、そこにいて、修行を始めていたのです。それで、師匠の命を受けてこの世に参りました。」
目を向けた一人一人の顔を見て、私は答えた。
「そこからどうやってここに?」
「お師匠さんに飛ばされて、気がついたら新宿にいた。」
そう言ってから、私は自分の説明が彼らを納得させる要素が一つもないことに情けなさを覚えた。「新宿」と彼らは復唱して驚いていた。
「僕、そこで陽さんと会ったんだよ」
翔太が唐揚げを頬張りながら言った。山田さんは味噌汁の腕を口に運びながら「そうなの」としっかり反応した。
「うん。ボロい服を着てて倒れてたんだ。声をかけたら、ご飯奢ってくれた。」
「仏様を拾うことってあるんだ。」
「うん。陽さんの実力は本物だよ。電車に乗ってもずっと瞑想しているし、お年寄りが目の前に来たらすぐに席を譲るし、お金も持ってるし。」
「翔太くんはそれまで何してたの?」
「うーん、まあ、散歩。」
「お父さんとお母さんは?」
「二人で出かけてる。」
翔太はそれだけ言うと、また食べるのに集中し始めた。
昼食の席は韮崎を紹介する話で盛り上がり、多めに作られていた料理はどんどん食べられていった。翔太は私についての愚痴や、面白い特徴を自慢げに語っていた。
初めはどれだけ話しても理解してもらえないかと思ったが、彼らになにかこの世に起こるさまざまな縁をありがたがる気持ちがあることは事実のようだった。
昼ごはんの席は長く話が続いて、翔太は飽きて漫画を読んで寝そべっていた。夜も私と飲みたいと誘う人もいたが、翔太の監督が行き届かなくなるので、断った。
「陽さん、やっぱり韮崎に住みなよ」
「住む、か。」
机には食べ終わった皿が並んでいる。
「住むにしても、いずれあなたも私もいつかはここから離れることになる。」
「ううん。そうじゃない」
山田さんはすぐに首を振って、私を見た。
「今、陽さんが韮崎にいることが楽しいんだ。だからそれを明日も続けたい。明後日も続けたい。それだけ。」
「今、楽しいならそれでいいではないか。」
「でも……」
山田さんはしばらく言い淀んだが、
「そうだね、その通りだね。」
と、空気が抜けたように吹き出した。

昼寝をしていた翔太を寝過ぎないように起こして、散歩に連れて行った。散歩といっても仕事があるのだが。市役所の通りにある緑光院に行った。門に着くと住職の瞳さんが庭を掃いていた。軽くなって積もった枯れ葉が庭の隅に山になっていた。
「ああ、陽さん」
瞳さんは少し歳を重ねたようだった。それにもかかわらず、朗らかさは前に会った時よりも増しているように感じた。
「私も手伝わせてください。この子も手伝います。」
「うわー、庭掃除かよー」
翔太は嫌そうな声を出して抗議したが、薄々手伝うことになるのを予想していたようでもあった。
「体を動かすと、ご飯が美味しくなるよ。」
「しょうがない。やるか。」
翔太の小さな覚悟を見て、瞳さんも微笑んでいた。
「じゃあ、倉庫から箒を取ってきましょう」
瞳さんについて行き、本堂の脇にある倉庫から箒を取り出した。魔法の箒で空を飛んでいるニーラが緑色にプリントされたゴミ袋と、ちりとりも取り出した。私たち三人で庭を掃く。ある程度山を作ったら、瞳さんがちりとりに葉を集める。私と翔太で地面に置かれたゴミ袋の口を広げて、ちりとりから注ぎ込まれる葉を受ける。サラサラと塵と葉がなる音がする。箒をはいて、ゴミを集めるためにしゃがむのを繰り返していると、温かくなる。空が一段暗くなって、青色が深く見える。雲が広がって、傾いた太陽の光を受け止めている。
「お墓の掃除もするぞ」
翔太に言うと、「ええ、お墓?」とちょっと怖がりながらもついていった。墓の狭い道はコンクリートに舗装されていて、その上に落ち葉がちらほらと散っている。古くなった花があれば、片付ける。花瓶から花を抜いて、ビニール袋に入れる。鮮やかな色と、枯れたくすんだ色が混在した仏花の花束だ。花瓶から引き抜くと、古い水が茎を伝ってコンクリートの床に落ちて跡を作る。手が濡れる。でも箒を持って掃いているうちに忘れていく。
「お墓には幽霊が出るの?」
翔太が率直に聞くので、瞳さんは笑った。その笑い声は、私も驚くほどの朗らかな笑い声で、前に韮崎に来た時には、こんなふうに瞳さんは笑わなかった。
「出るかもねぇ。だって、ここに仏さんもいるもんねぇ」
瞳さんは私の腕をポンと叩いた。
「まあ、出てもおかしくはないなぁ。」
「ひええ」
翔太は、あまり面白くなさそうに手を止めた。
「さあ、ここの列も掃いて。ちりとりで取るから」
瞳さんがテキパキと指示をして、作業を再開した。翔太も仕方なく掃き続ける。幼くて飽きっぽいと思っていたが、体を動かして葉っぱを掃く作業なら続けられるみたいだった。墓の通路は入り組んでいて、全てを掃除するのは諦めた。瞳さんは、目につく葉っぱを掃いておしまいにした。
墓掃除が終わると、瞳さんはケーキを出してくれた。こじんまりとした社務所は、前に来た時と全く変わらなくて、新しいものも、古いものも足されていないようであった。お茶を出そうとして、急須と茶葉が仕舞われている位置も変わらなかった。ケーキは茶色いケーキで、チョコレートの味がすると思ったが紅茶のようなほろ苦い味がした。食べ始めて、翔太の口に合うか少し心配になったが、お茶と一緒に食べていて安心した。
「ちょうど昨日檀家さんがくれてねぇ」
瞳さんは、木の椅子に腰掛けてフォークで四角いケーキを切って口に運ぶ。
「お孫さんの誕生日に、ケーキを買ったからお寺にもくれるんですって。駅の近くのあのケーキ屋さん、美味しいわよね。行ってみた?」
「いいえ、まだです。」
「せっかく来たのだから買うべきよ。あと、ガード下のひよこ豆のカレー屋さんもたべたら。おいしいのよ。」
瞳さんは、最後の一欠片の茶色いスポンジをパクリと口の中に入れた。そして、フォークをそっと丸い皿の上に戻すと、両手で湯呑みを持って、お茶を啜った。翔太はケーキが美味しいのか美味しくないのか口にしないまま、一切れを食べ終わった。
「あ、翔太くん桃ジュースも飲む?」
「うん。」
瞳さんは冷蔵庫から瓶を取り出して、翔太のコップに注いだ。
翔太が桃ジュースを飲む。
瞳さんとは、私が前に韮崎に来た頃、緑光院でお世話になった。優しい目をしていて、緑光院の庭をよく掃いていた。私は、緑光院の本堂に布団を敷いて寝ていた。観音様の前で横になるのは、文字通り足を向けて眠れないから、よく瞑想をしていた。夜中に一人で瞑想をしていると、瞳さんが温かいお茶を淹れてくれた。
満月の日で、月が本当にまん丸だった。瞳さんは、本堂の正面の戸を開いてそこに腰掛けた。観音様に月の光が少し届いた。夏だったと思う。戸を開け放っても寒くも暑苦しくもなかった。虫が鳴く声が聞こえた。
「陽さんねぇ」
と声かけるのが瞳さんの口癖だった。わたしはそれにいちいち「はい」と答えていたが、次第に少し喉の奥で聞いていることを示す声を出すだけで、瞳さんが一人で話し出すようになった。話すのが好きな人だった。咲いている花のことや、美味しかった野菜のこと、昨日見た夢や、時々連絡をくれる娘さんのこと。
ここの前の住職さんが瞳さんの夫で、彼が亡くなってからは緑光院は少し寂しくなった。でも、瞳さんの笑顔のおかげで、いつも通り檀家さんはお墓参りにくる。お盆やお彼岸にはちゃんと帰ってくる人がいる。
ちょうど来た時が、お盆の頃だったから、寺の庭先に段ボールいっぱいのお線香と、机と椅子を出して線香売りの店番を手伝った。夏の夜にお墓参りに来る人たちの、線香の煙の匂いと火の光が美しかった。
翔太はジュースを飲み干して、満足したあと、
「戻すよ」
と自分から席を立って冷蔵庫を開けた。
しかし、瓶を片手に持ったまま扉の前でうろたえている。
「どこに入れれば?」
瞳さんも立って、冷蔵庫の様子を見る。遠目にも、ぎっしり物が詰まっている。
「ごめんねぇ、散らかってて」
そして、ジュースの瓶を散らかった冷蔵庫の醤油瓶やら、牛乳パックやらの間に強引に詰め込んだ。
「これでいいの? 足がついてないよ」
「足がついてなくても、支えられて立ってればいいの。」
「もし倒れちゃったら?」
「ちゃんと蓋が閉まってればいいの。そしたらこぼれることはないから。」
「わかった」
翔太は納得した様子で、冷蔵庫の扉をそっと閉めた

「明日も明後日も、こうして過ごそう。」
緑光院をあとにする。翔太は、道に敷き詰められたレンガの色に合わせて飛び跳ねながら歩く。並んだ店から料理の匂いがする。シェアハウスに帰って食べるつもりだったが、もしかしたらもう夕食どきも始まっているかもしれない。居候して初めての夜だから、タイミングが掴めない。掴めなかったら外で食べていけばいい。スーパーマーケットで買ったりもできるだろう。
山並みにオレンジ色の光がかかっていた。歩いていると、地面を歩く足音が空に溶けていく。夕餉を急ぐ車の音が吸い込まれていく。
空。空というものはない。地上に降り注いだあらゆる光が、それを見上げる人の思いと編み込まれた色。常に移り変わることそのものを空という。

煙が立ち、線香の先が黒く焦げはじめ、赤く光る。先端までよく燃えるように、ガスコンロの火に当て続ける。息を吹いて火をかき立てようと思ったが、マスクが息を遮る。瞳さんが笑って団扇を手に取って風を送ると、線香の先が赤くなって燃えた。
「陽さん、あと十把買ってく?」
「そんなに買ってどうするんだ。」
「陽さんお金持ってるんでしょ。」
「必要な分だけだ、一把。」
翔太の手のひらに百円玉を渡した。そのときに、少し彼の手のひらの皮が厚くなっているような気がした。私の裾を引っ張って駄々をこねる姿ばかり思い出していたが、さすがにこの手で裾を引っ張られたらかわいげがない。
私は、翔太から買った線香を、本堂の前の本尊様のところと、お地蔵様のところに置いて、手を合わせた。
「翔太、よく働いてますね。」
「ええ。」
翔太はお線香代を入れる賽銭を見守りながら墓参に来た人たちの案内をしている。おつりがある人には、おつりを渡して、コンロのガスがなくなったら新しい缶に取り替える。案内する時は、一把百円です、あちらで火を付けてください。などと大きな声で言うのだが、笑ってしまいたくなるほど改まった感じのしっかりした声だった。
瞳さんはそんな彼を見て、目元から笑う。
マスク越しでも、緑光院に満ちる線香の煙の匂いは十分に感じる。夕暮れの空のしたに煙がただよっていると、現世もどこか彼岸に近づくような感じがする。
「また陽さんと会えたねぇ。」
「帰るところといったら、韮崎かと思って。」
「本当は翔太君を見たかったんだろう。」
「まあ、それもあります。」
図星をつかれて私は思わず頭の後ろを掻いた。
「あ、陽さん。」
振り返ると山田さんがいた。
「この人、仏様だよ、拝もう拝もう。」
脇には、どこかで見たことのある人が立っている。
「陽さん、これ私の旦那。」
「ほお。」
「韮崎でついに結婚しました。」
「あ、夏紀がお世話になってます。東です。」
山田さんの旦那さんは、お辞儀をした。
「ほら、これ、シェアハウスの。前に会ってたよねぇ。翔太君が泊まりに来たときの。」
「ああ~、菩薩の。すごい人じゃん。」
「ほら、拝もう。拝もう。」
東という人と、山田さんは、一緒になって私を拝んできた。私は恥ずかしくなって、「拝んでも何も出ないぞ」と言った。「え、なんか出るでしょ。本物の菩薩なんじゃないの。」山田さんは、顔を上げて声を張った。心なしか、前よりも声が大きくなって元気になった気がする。夕方で、顔はあまりはっきり見えないが、バッチリと笑っている。
「はは、それで出たら最高だねぇ。」
瞳さんも、手をたたいて笑った。
「あ、もしかしてあれ、翔太君?」
「そうだよ。」
山田さんも翔太の売り場に行って線香を受け取る。二把買って、ガスコンロに火を付け、線香に息を吹きかけようとして、マスクをつけていることに気がつく。
「はは、陽さんもやったよ。」
瞳さんがまた笑って、うちわで山田さんの線香も軽く仰ぐ。
「翔太、なんとかやれてますか。」
「なんとかってどころじゃないよ。」
瞳さんが、頭まで皺を寄せて笑った。
「コロナで学校がなくなっても、元々行ってなかったから、とか言ってお寺中を掃除してねぇ。私と二人だけで、とっても綺麗にしちゃったよ。」
「それはいいですねぇ。」
「翔太君。また、陽さんと旅をしたいって。その話ばっかり。」
瞳さんが言った。
「今度は、どこか別のところへ行きましょう。」
「ふふ、きっと喜ぶよ。」
客足がちょうど途絶えた頃で、翔太は持ち場を離れてこちらにやってきた。
「陽さん、何で急に行っちゃったんだよお」
駄々をこねる翔太は初めて会った時から変わらないようで、少し伸びた背が、私をほっとさせた。
私が疲れて眠っている少年を見つけたのは、夜の電車の中だった。一番端の座席で、うつむいて眠っていた。
名前を聞くと、翔太だと教えてくれた。私たちは、しばらく話をしたのだと思う。
「どうしてそんなことをしているんだい。」
「みんな、何も気にしない。だから、どこかに行って消えてしまおうって思ったんだ。」
「それはいいな。」
私は言った。
「どうせ、大人にはどうでもいいことなんだ。」
翔太は、ポツリと言った。仕方なく、今までのものを一つずつ取り返すように、ひっそりとでも確かな言葉だった。
「でも初めからどうでもいいってわけじゃないんだよ」
私は話し始めた。
「無限地獄っていうところがあってな。
生まれてもまた死んで、死んでもまた生まれて。
私は生きる意味も死ぬ意味もわからなくなってしまうところなんだ。そして、最後には、何も感じなくなった。」
「地獄ってあるの?」
翔太は、私の顔を見て言った。その問いかけの真剣さが、私に刺さった。
「私にとっては、地獄だった。」
翔太は、声もなく驚きと絶望に目を暗くした。
それでも、私は話し続けた。
「結局、何度繰り返しても私にとって生きることはどうでもよかったんだ。生まれて、死んで、それを繰り返して、どうでもいいってわかるまで、こんなに時間がかかった。
それが、苦しくて仕方がなかった。どうしてもどうしても生きたいと願っていたはずなのに。なんとしてでもこの地獄を生き抜こうとしていたはずなのに。」
私は、電車の床には何人もの人が歩いた靴の跡が黒く、染み付いていた。
「でも、わかった。私は無駄なことを繰り返して、磨かれなければいけなかったんだな。心の底から求めて、苦しんで、それで打ちのめされて、無駄であることを思い知るしか、自分が求めていたことが本当はどうでもいいことだったって気が付けないぐらい、私は愚かだったんだ。
でもたぶん、そうやって気づいていくのは、死ぬとか生まれるとか輪廻の中にはない、その流れのもっと深いところにある、何か、なんだと思う。」
私の隣に翔太は座っていた。荷物はたいしたものが入っていないショルダーバッグだけだった。
それから少し背が伸びた翔太の目を見て、私は彼の頭に手を置いた。翔太はまだ何も納得がいかない顔で私を睨みつけた。そのわからなさを抱える彼が、私には羨ましく思えた。
空に立ち昇る線香の香りが、花の香りになる。
「また、春に来る。」
次の春には、私たちは咲き誇る桜を見て、風に流される桜の花びらの一つ一つになって空に舞い、散りばめられ、まだ、この世の何かを知らない。
ただ、美しさだけを知っている。
「俺も、行く。」
翔太は応えた。私は頷いた。
それが、翔太と私が旅をするきっかけだった。

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