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すれちがうということ

街に出れば、誰かと、何かと、すれちがう。
視線が合うわけでも会話をするわけでもないけれど、自分の半径数メートル先を誰かがすれちがっていく。
以前は意識すらしなかったが、ほとんど家から出ない日々が続いて約3か月が経ったいま、「すれちがう」ということについて考えてみたい。

新型コロナウィルスによる自粛生活はなんというか、果てしなく続く一本の線みたいだと感じる。
毎日のルーティン、いつも見るニュース、代わり映えしないタイムラインと、月曜日、火曜日、水曜日と等間隔に置かれた定点を結ぶような日々。
それはコロナ前後で変わらないといえば変わらないのだが、以前はそのような日々の中でも自分とは違う何かとすれちがうことで、線を逸脱してみるということができていたと思う。
最近は、線をまっすぐ引くことには関係のない行動ができていない。

すれちがっていく各々にそれぞれの生活があって、普通であればそれらが交わることはないだろうし、すれちがいそのものは意味を持たない。
けれど、たまに線から外れてみることで、あるいははぐれた誰かがやってくることで、始まっていく何かが恋しい。
自分の線を生きていくなかで、無関係だと思っていた他人のエピソードが混入する偶然を家の中で悶々と欲しているのだと思う。

いままで普段の生活に制限をかけるような方法で自粛生活を送っていたが、偶然と出会うためにはなにか根本的な自分のあり方を見直さなければいけないのかもしれない、と思った。
世界はニューノーマルに移行中だというが、ノーマルということ自体を自分自身に問い直さなければいけない気がしている。


P.S.
書きながら考え抜いた結果、イタコ(降霊術)こそが感染を避けながら、他者と濃厚接触をする最適な方法かもしれないと思いました。

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