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納める、何をどこへ

2024.01.22

日曜日に吐血し、透析の針も入らない状態で、年末からそろそろ危ないですよ、と何度も看護師さんから喚起されていたものは、もう危ないです、今週中には、と具体的な期限を持った警告に変わった。
覚悟していてください、何度も言われた言葉だ、覚悟って何の、いや分かるけれど、必要だろうか、。
その覚悟もないまま、正確には覚悟が何かも分からぬまま、月曜日、支店会議10分前に母から祖父が亡くなったと連絡が来た。

少し動揺したけれど、やはり覚悟は不要だった。準備するもの(喪服、ペンケース、黒い靴、パソコン)が10分後に始まる支店会議と葬儀とでごちゃ混ぜになるくらいの動揺だった。少しじゃないか。

火曜日〜木曜日までお休みをいただくことになった。相談した支店の人に「帰っちゃえば?」「帰っちゃえ!」「帰ってください」と言われたけれど、週明けでけたたましく鳴り続ける電話にうんざりしながら、タスクをこなすしかなかった。月末のド平日に穴を開けた後、心も体も痛がる金曜日の私が伺える。
19時頃、支店のビルから母に電話をする。
開口一番の「お疲れ様」にはいつもより疲労の息が含まれていた。
葬儀の日程や場所、遺影、花の手配、各所への連絡、決めることが沢山あったらしい、「大変だったね」「大変だったよ〜」
もう一度お疲れ様と伝えた。
祖母に変わった。悲しんでいないようだった、あくまでようだった、声だけしか聞けていないから。祖父の事よりも私の体や心は健康なのかと心配しているようだった。
母に変わった。「まず、気をつけて来てね、新幹線の時間が分かったら教えて。納棺は14時からだよ」「分かった、また明日」

なんとかやるべきことをやって、(実際にはまだまだやるべきことがある)時計を見ると22時だった。隣に座っている先輩からLINEが入る。
「まだやるの?」
「もうやりません、まだやりますか?」
「もうやりません、帰ろう」
パタンとパソコンを閉じて帰る準備をする。
GLがまだ残っていた、目を擦っていた。
こんな時間まで残業するのは初めての事で、絶対に慣れてやるもんかと思った。私のために日常にする訳にはいかない。

2024.01.23
何も準備していなかった。昨夜はお風呂に入れただけマシだった。アラームが鳴る。起きる。カーテンを開ける。エアコンのスイッチを入れる。ここまではいつもと同じだけれど、スーツケースを取り出す。

必要なものはメイク道具と下着、お土産、そして喪服、そう、喪服。

岩手に着いたらそのまま納棺に立ち会えるよう、喪服を着ていくことになっていた。
喪服なんてものは持って無くて、代わりに黒いスーツ(以降喪服と記載)へ腕を通す。似合わないからクローゼットの奥にしまっていた、ズボンの裾に皺が付いていた。

準備を整えて上野駅に向かった。お土産屋さんをさらりと一周して、前回と被らないよう何点かピックアップして購入した。あまから団子を買った。持ち帰り2時間です、はい、大丈夫ですと答えた。余裕だった。その時点では。
ホームに着く、東京は暖かかった。席に座る、発車する、とりあえずDENIMSを流していた。「DAME NA OTONA」が流れ、大宮駅に着くアナウンスがあり、数分後、停車した。

曲が移り変わっていく、動かないままだ。疑問が不安に変わった頃、「停電している」とアナウンスが流れた、また数曲流れた後、「架線が切断されているため、復旧にはかなり時間を要します、皆様の貴重なお時間…〜」
停車から20分が経っていた。
車内の各方位からため息や貧乏ゆすりをする音、宿泊先へのキャンセルの電話、音が一気に動き出した。
Twitterを開くと、改修作業に数時間〜半日はかかるようで上下線運転見合わせの文字が目に入った。
納棺に間に合わないと悟り、家族LINEにその旨を伝えた。

木曜日の葬儀に間に合わせるため、岩手へ帰る手段を探し始めた。
①特急ひたちで仙台まで②夜行バス③新幹線④ダッシュ

何が得策か判断できないまま時間が過ぎていった(③④はすぐに却下)時々考えるのを辞めたくなって、変わらない景色をぼんやり眺めたりした。

停車してから30分が経ち、大宮ではなく退行運転を行い、上野駅まで戻る旨のアナウンスが流れた。退行運転の準備が整うまでの2時間は、ひたすらTwitterとえきねっとの反復横跳びをしていた気がする。

棺に入れる手紙の内容はどうするか、父からLINEが入った。
言葉が浮かばなかった、今自分がどんな感情を抱いているのか分からなかった、名前を付けられなかった、安らかにお眠りください、今までありがとう、ずっと大好きです、さようなら、どの言葉も不適当だった。最適な言葉を見つけたかったのかも分からずに、迷っていると、母がそれっぽく代筆してくれたようだった。「それでお願いします」と伝えた。薄情な自分のことが少し嫌いになった。

退行運転が始まった。ゆっくり停車しながら安全を第一に考えた運転だった、動画を撮っておいた、箱根登山鉄道のスイッチバックを思い出した。隣に座っていたあの子のことも思い出した。

上野に着き、13時を過ぎていた。みどりの窓口には長蛇の列が出来ていて、改札前の駅員にもひっきりなしに質問が飛び交っているようだった。

払い戻しの列に並びながら、特急ひたちに乗ることに決めた。夜行バスを待つより、そっちの方が面白そうだったから。ダメ元で購入希望を伝えるとタイミング良く1席空いたようで、指定席券を購入することが出来た。

昼食を済ませて、上野駅に戻ると15時48分発の普通列車仙台行のアナウンスが流れていた。聞き間違いかと思いつつ(聞き間違いではなかった)、足早に16時発の特急ひたち発車ホームへ向かった。夕方から夜にかけての海沿いを見れるのだと鼻息荒く乗り込む。座席はD列で窓際だったものの、自分は陸側だと悟りしゅんとした、通路や座席の間には人がみっちり立っていて、座れただけでも有難いのだと言い聞かせた。

PK shampooを流していた。日が落ちていく中で「落空」が流れ、でかした!とiPhoneを褒め称えた。
車、バス、電車、新幹線、飛行機の順に、その街の暮らしは眺めにくくなる。やっぱりバスの距離感と速度が心地が良くて好きだと思った。
飽きることなく子供のようにひたすら景色を眺めていた。景色を見逃したくなくて、眠るのが惜しかった。立派な旅になっていた。こういうことをずっと、ずっとしていたいと思った。

暗くなってからは何度か眠りに落ちて、起きてはぼんやりと外を見つめての繰り返しだった。寝ぼけた目はピントが合わず、遠くの街灯の輪郭を失わせて、やけにきらきらと幻想的に映してくれていた。

20時半過ぎ、仙台に着く。
ひんやりとした空気、すぐさまホテルに向かった。
道中、ファミリーマートで窯出しプリンパフェを買ったが、“食べる前と食べた後で体調にかなり変化がある、でも美味しい…”と好き人におすすめして良いか分からない食べ物に認定された。

流石に移動で疲れたらしく早めに眠りに落ちた。

2024.01.24
起床、付近の部屋で水道をキュッキュッと捻る音が聞こえる、貯めた船内の温度は丁度良く、熱湯と冷水の調整は一晩経ってマスターしたようだった。

お化粧をして仙台駅に向かう、雪がちらほらと降り始めていた。
新幹線は始発から運転再開したらしく、JR東日本に感謝しながら、乗り込んだ。

最寄り駅に着く、車を見つけて走る、父が降りてくる、スーツケースをトランクに積んで助手席に座る、一息ついて「ただいま」「うん」のやりとり、父の「うん」にはおかえりと同じ役割がある。

一度実家に帰ると思っていたら家族親戚は祭儀場にいるらしく、そのまま向かうことになった。雪は吹雪に変わっていた。これから祖父に会うと思うと動悸が少し早くなった。

祭儀場に着くと祖母が涙ぐみながら出迎えてくれた。かなり心配してくれていたらしい、思い切り笑って大丈夫だよー!お腹すいちゃったな!と伝えた、安心したらしい、釣られて笑顔になっていた。

お腹が空いたと伝えたからか、棺の中を見ずに座敷へ通され、「食べて食べて!」と瞬く間に目の前に炊き込みご飯が用意されて、笑ってしまった。
妹、母、親戚のおじさんおばさんがいた。親戚に会うのは高校生振りで、どぎまぎししていた。

昼食を食べ終わり、「おじいちゃんに挨拶してきて」と促され、妹にくっつきながら祭壇に向かった。
お線香に火をつけて、挿す。棺にゆっくりと近づき、覗いた。眠っていた、そのままだった、眠っているだけだった、「お水あげて」と言われた、何度かやったことのある行為だけれど、「いやいい…」と首を横に振る。「えぇっ、いいじゃなくてあげなさい」に「出来ない」と伝えた。遠慮ではなく、不可の方が回答として合っていた。
逃げるように座敷に戻った。

右手にお菓子、左手にコーヒー、それらをひたすら口へ運ぶ運動を繰り返しながら、母と祖母の会話を聞いていた。決めることは山ほどあって、お金も沢山かかることが分かった。贈与された花の順番、お悔やみ返しはどうするか、和尚さんへ渡すお金はいくらが最適か、納骨の時は誰が遺影を持って誰が遺骨を持つか、親戚一同が集まる今晩のご飯はどうするか、沢山沢山あった。

お盆に乗っていたお菓子の二巡目に入ったあたりで、母と妹と買い出しに行くことになった。
親戚に対して母や祖母は思うことがあるらしい、幼い頃には気づけなかったその棘達を取り除くことは不可能な気がした、血縁があるという理由で仕方ないことだと割り切る事しか出来なくて、面倒臭くて気持ちの悪いことだと思った。そういうことを全て任せて、目を逸らしたくて上京したのだと改めて実感した。

18時頃、親戚一同が集まり食事を摂った。
途中で鳩子達に呼び出され、隠れたコッシーをみいつけた!したりした。サイゼの間違い探しくらい難しくて、答えを教えてもらった。

20時頃、「明日は早いから…」と解散し、やっと実家に帰ることになった。父と祖母は祭儀場に泊まることになっている。雪は吹雪に変わっていて、ホワイトアウトの中、帰宅した。愛猫をひたすら撫でて、湯船に浸かり、祖父が使っていた部屋で眠った。怖くなって、妹に「起きてる?」とLINEをしたが、返事が来なかった。ぎゅっと目を瞑った後は案外早く眠りに落ちたらしかった。

2024.01.25
6時、アラームのスヌーズが鳴ったと同時に母が起こしに来てくれた。眠くて眠くてたまらない。「ん〜分かってる…」と言ってしまった後、起こしてくれる人がいる有難さに脳が気づいていき、後悔した。布団の外の寒さは、東京と比べ物にはならなくて、よくもこんな寒さで休まず登校していたな…と昔の自分を褒め称えつつ、ぐずぐずと起き上がる。

「寒いでしょ、5時には起きて暖房早めに点けたんだけどね…」と言う母に、驚きと感謝と尊敬の念を抱きながら、「はい………」と苦笑いした。

道路は昨夜の雪でアイスバーンになっていて、ゆっくりゆっくり、それでもたまに滑って「ウワーーーーーーーーーッ!」と母、私、妹3人で叫んだりしながら、なんとか祭場に着いた。

身内の私達よりも先に近所のお年寄り達が着いていた。田舎あるあるなのかな、お年寄りの人達ってどうしていつも集合時間の前に待機しているんだろう。それもすごい前。30分前に着いていることなんてザラで、たまに1時間前に着いている人もいる。時計の針を1時間遅らせてみてほしい。

挨拶をしつつ中に入る、父は髪が薄いところにヘアスプレー(?)をまぶしていて、私達は「いー感じじゃんwww」とゲラゲラ笑った。洗面所で妹と前髪を巻き、コーヒーの2杯目を飲み終えたところで、そろそろ葬儀が始まるらしかった。

隣に座った母が「念仏の間って色んなことを考えるよね」と言った。「わかる」と言って、母は何を考えるのだろうと思った。
自分はいつからか、良いな早くそちら側に行きたいな、と遺影を眺めながら思っていた気がする。不謹慎極まりないが、誰のお葬式でもそんなことを考えてしまっている。
祖父の遺影を他の家族に置き換えてみると、目頭が熱くなったのですぐに辞めた。たまに自分の寿命を均等に家族へ分け与えることは出来ないのかと思ったりもする。それか家族が亡くなる時は一緒に何かの事故で…とかも。失うことが怖い、と家族への大切さを改めてしみじみ感じていたら、いつの間にか終わっていた。

「ここの和尚さん、念仏長いらしいよ〜」と母に言われ、覚悟していたものの、案外早く終わった。それよか念仏よりも葬儀が終わった後の和尚さんのお話が長かった。でも面白かった。如来とか釈迦とか菩薩の名前がいっぱい出てきて途中で整理できなくなって、海外ドラマの説明をされてる気分になった。
元教師の和尚さんらしい、絶対歴史教えてたでしょ、と思った。

葬儀を終えて、祭壇にある花をひたすら入れてくださいと言われた。死装束を被せ、履いていた靴を入れた。胡蝶蘭や百合を入れた。極楽鳥花は入れられなかった。最後に父が胸元へ小花束を添えた。私が死んだ時、何の花を入れて欲しいか遺書に書いておこうと思った。そういえば、自分が1番好きな花を誰にも伝えたことがない、それも遺書に書いておこうと思った。

棺の蓋を閉めて祖父は霊柩車に乗せられた。

火葬場に向かった。既にずらりと車が並んでいて、ご近所さん、ぶどうでお世話になっている農協や産直の人たち、父の同級生が来てくれたらしい。ご焼香を終えた100人くらいの知り合いにぺこりぺこり頭を下げながら、ほぼ8割がおじいさんおばあさんで、“明日は我がm…”と本当に失礼なことが脳を掠めたので、5cmくらい深めに頭を下げておいた。
たまに「大きくなったね」と声をかけられたが、えへへ…と誤魔化した。私が覚えているのはほんの4、5人程度だった。

挨拶を終えヘドバン(実際にはしたことない)をした後の首の疲れと口角の引き攣りを感じつつ、最後のお別れです、と促され、棺の前に皆で寄った。お別れの言葉をそれぞれ口にした。
私も言ったはずだが、正直覚えていない。
骨になるまで、1時間半〜2時間かかると言われた。

昼食のお弁当を配り、手違いで自分達のお弁当がなかったためにコンビニへ車を出した。
何を食べたいか分からず自分はブリトーにした、喪服と伸びるチーズが不釣り合いで可笑しかった。

お昼を食べた後、昨日のようにコーヒーとお菓子の上下運動を繰り返しつつ、祖父との思い出を母と話した。思い出したくない部分は霞んでいて、「〜だったよね」の返事に「そうだったかな〜」と曖昧に笑ったりした。

「おじいちゃんがさ、火葬される時、正直泣くかと思ったの」「うん、私もそう思った、どうだった?」「泣かなかった、泣いた?」「ううん、おばあちゃんも泣いてなかったね」「そうだね」

他の卓も思い出話に話を咲かせたり、近況を報告しあったりしていた。小さい頃から、火葬を待っている時間が好きだった。
このnote、不謹慎な発言ばかりで良くない気がしてきたな…

準備が整いました、と声をかけられた。妹が「焼き上がったの?」と言ったので、「そんなパンみたいに…」と少し笑ってしまった。

向かうと、骨があった。祖父だった人の骨。足の骨が太く、頭蓋も綺麗な状態だった。割り箸を手に取る。喉仏を最初に祖母が容器に入れた。父は頭蓋骨、母は肋骨、私と妹は足の骨を中心に箱に入れていった。
全てを入れ終わり、遺骨は私が持つことになっていた。あたたかかった。今、抱えているあたたかな箱の中に祖父だった人の骨が入っている、という実感はもちろん湧かなかった。

その後、父が葬儀に来てくださった人へ向けて挨拶をした。「サポートしてくれ」と隣に立たされた。父はこの挨拶を昨夜からずっと緊張していたようで、手元の書面には全て送り仮名が振られていて、可愛かった。手も声も震えていて、普段人前に出ないもんね、頑張ったね、と褒めたくなった。緊張しいなところは私が受け継いだんだな、と思った。

納骨をするため、お寺へ向かった。
雪がじゃんじゃか降っていて、それでも晴れていて太陽の光があたたかい不思議な天気だった。
雪をギュッギュッと踏みしめながらお墓へ向かう。
いよいよ骨を入れる、あたたかな箱を葬儀屋さんに渡す。以前は土葬だったため、私の曽祖父の人骨が綺麗に見えた(らしい、怖くて見れなかった)。
和尚さんが再度念仏を唱え、全てが終了した。
思ったより早く終わり、早めの新幹線で帰ることになった。もう翌日の仕事のことしか考えられなくなっていた、いや正確に言うと、お葬式で念仏を唱えているあたりから。

祖母、母、妹は実家に祭壇を設けるため、父と私だけが駅へ向かうことになった。祖母はまた泣いていた。「またゴールデンウィークに帰ってくるよ!すぐだよ!それか春休み東京おいでよ!」「いっぱい食べるんだよ、体に気をつけて」「いっぱい食べるの得意なの知ってるでしょ!任せて!」と会話を交わして、笑ってくれたことに安心して、車に乗り込む。手を振った、寒いのにずっと外で手を振ってくれていた。

駅に着いて新幹線の切符を買う、通常通り運行していることにまた感謝をして、父にも労いの言葉と別れを告げる。

自由席に無事座った、カネコアヤノを流した気がする。というのも、東京までの3時間爆睡し過ぎて記憶がないからだ。いつの間にか東京に着いていて、慌ててスーツケースを下ろした。

祖父が亡くなったことをきっかけに、私の心境や家族の関係に特段変化は起きなかった。一緒に暮らしていた身内が亡くなるのは、初めてのことだったけれど、何も、何も変わらなくて、でもそれは亡くなったのが祖父だったからだ。
祖父との思い出は、ここで書くには苦すぎる、し誰にも話したことがない、というか話せない。恨みや怒りが含まれていて、どうにも笑いに変えられず、それこそ墓場まで持っていこうと思っている。家族にすら話せない事は心の奥の奥の奥で、ハリポタのグリンゴッツ銀行くらい厳重に鍵を掛けている。(ドッ)

何も変わらないまま日常に戻っていく、洗濯機を回す、湯船に入る、社用携帯のマナーモードを解く。明日が怖くて鼓動が早くなるのも、いつも通りで寧ろ安心した、いややっぱり嘘。

祖父が亡くなった連絡を受けてから直ぐに、記録しておきたいと思い、noteに書き留めておいた日記のようなもの、思ったよりも長くなってしまった。

また読み返そう。大晦日という意味を与えられて、特別だけれど特別でない、本当は日々の延長にあるだけの12月31日みたいな日記になった。

推しは推せる時に推して、帰省は帰れる時に帰って、遺書は書けるうちに書いておこうと思う。
死ぬ季節くらいは自分で選べたらなと思った。
祖父の死が訪れた1月の下旬を過ごして、そんなことを思った。

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