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腑に落ちないこと

 気が付いたら約十か月ぶりの投稿になっていた。文章を書くという行為が久しぶり過ぎてまとまりのない文章になる気がしてならない。
 この十か月で私は社会復帰を果たし、現在は何故かIT業界のエンジニアとして働いている。きっと前職Excel電卓叩き上司が相当嫌だったのだろう。今の会社はExcel電卓叩きなんてせず、コマンドを打っている。人生何が起こるかわからないものだと思う。

 久しぶりにnoteを書こうと思ったのも社会復帰をして数ヶ月経ち、またむくむくとクソみたいな思考が出始めたからである。
 腑に落ちないこと、というものにどうやら自分はとことん考える質なのだとここ最近気が付いた。本当に些細なことでも腑に落ちなければ数時間考えてはまた腑に落ちない。腑に落ちないな、と考えながらまたその繰り返しをしてしまう。不毛な行為であるとつくづく痛感する。

 今日こんなことがあった。
 私の上司は主に二人いる。そのうち一人は私の教育も兼ねるような立場、もう片方は私含め新人をマネジメントするような立場の人だ。どういう事情があったのかは知らないが、マネジメント上司が教育上司に「いい加減にしろよ」と感情を爆発させて言ったのである。
 あと日報書いたら帰るか~と呑気に考えていた時のことだった。正直勘弁してくれ半分、この人はどうしてこんなことを言ったんだ、しかも私や私含む新人がいる前でという気持ち半分だった。

 帰りの電車ではそのことで頭がいっぱいだった。別に私が怒られたわけでもない。私が何かやらかしたわけでもない。しかし脳内では「教育上司のタスクがいっぱいになっているのはあなたのマネジメント不足なのでは?」「マネジメント上司の言い分も何か事情があるとは思うが感情的になるのは良くないのではないか?」「そもそも話している内容から新人教育系の話ならば私がいる前ではやめたほうが良かったのでは?」
 その思考がずっと止まらない。当事者でもないくせにどうすれば最適解だったのかを考えてしまう。意味が分からない。当事者じゃないくせに。
 家に帰ってご飯を食べても、お風呂に入ってもまだ考えていた。考えすぎていたからか両腕が痺れた。

 社会って腑に落ちないことばかりだろう。こうして私も誰かに感情爆発させられて腑に落ちないことを言われるのだろう。当事者でないくせにこれなら、当事者になったら一体どうなってしまうのだろう。考えるだけで嫌になる。

 つくづく実感するのは、私はあまり社会適正がないということだ。


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