脳が予測に基づいて外界を認知・行為していくことを前提にして,大森荘蔵『新視覚新論』を読み進めていきながら,ヒト以上の存在として情報を考え,インターフェイスのことなどを考えいきたい.
このテキストは,大森の『新視覚新論』の読解ではなく,この本を手掛かりにして,今の自分の考えをまとめていきたいと考えている.なので,私の考えが先で,その後ろに,その考えを書くことになった大森の文章という順番になっている.
引用の出典がないものは全て,大森荘蔵『新視覚新論』Kindle版からである.
一 心に浮かぶもの
大学で担当している「メディアアート論」で,長田奈緒の個展「少なくとも一つ」を取り上げた回の学生のコメントに「長田奈緒さんの『少なくとも一つの』を見ていると、どちらもモノもどきであるのに、どちらが本物かを無意識に考えてしまった。どちらかが本物だと信じてしまうリアルさ、しかしどちらも虚偽である奇妙さ。」とあったことを思い出した.二つの「写し」が近くにあると片方を「本物」だと思ってしまう.しかし,それは二つとも「虚偽」である.虚偽であるのにどちらかを本物だと思ってしまう.大森は「写し」はないとして,そこに登場しているのは「本物」であるとする.大森の考えでいうと「どちらかを本物とする」こと自体が間違いなわけだけれど,同じものが二つあったときにどちらかを「本物」とみなしたり,「私の」として選ぶことは事後的分類になるだろうか.大森の考えで,長田奈緒の個展「少なくとも一つ」をもう一度考えたくなった.
この辺りを読んでいるときに,it-from-bitの世界観で大森の考え方を記述するとどうなるだろうかを考えていた.世界の源に情報があるとして,ある統合された情報が事物となる.その事物がヒトの意識に立ち現われる.この「立ち現われ」を意識で改めて統合された情報として考える.そうすると,情報が統合されて事物が現れて,事物を媒介にして,意識で改めて情報の統合が起こり,立ち現われが生じる.事物=itは媒介の役割を担うものとして,世界に展開している.情報を統合されたかたちで保存しているのが事物で,それが認知され,改めて統合されて様々に立ち現われるときに,事後的分類が起こり,情報が増えていく.複数の立ち現われ=情報は,ネルソン・グッドマンが言う「バリエーション」として,それぞれの世界を制作していくことになる.
二 心の働き(認識)
『新視覚新論』を「瞼」の哲学として考えたいと,ずっと思っている.「瞼を閉じたって何かが見えています.瞼の裏が見えています」や「瞼はポータブルで自動操縦できる肉質カーテンなのです」というところから,瞼について考えたい.私は「瞼を情報を単調化するフィルター」として捉えている.瞼を閉じた一瞬だけ,あらゆる立ち現われが消える感じがある.世界からの情報で立ち現われが立ち現われるが阻害されるというか,立ち現われが起こるのに必要な情報が瞼によって遮断される.「遮断」とかくと大森の考えと異なる.瞼を閉じても見えている=情報は入ってくる.しかし,その情報が瞼を透過するときに単調化されるので,立ち現われのために必要な情報を提供しない.瞼のこちら側を見るというよりは,瞼を透過してきた立ち現われをブートストラップするのに必要な情報が無効化された光の集合を見ているということになるだろう.
下の箇所を読んだ過去の自分は「表裏一体.表=見えるものが変化すれば,すなわち,裏=見えないものも変化する.」とメモしている.表裏一体の変化を記述する方法がいまだに見つからない.金井良太の『AIに意識は生まれるか』の「まず前提だが, IITは,心(意識)と物(物理世界)を分けて考える心身二元論の立場はとらず,あくまで意識は一つしかないとしている.その一つの現象を,内側から見ると意識で,外側から見ると統合された情報になる……というのが IITだ.p. 117」を参考に考えるのがいいのかもしれない.意識とは逆に,世界の事物は「見える表」=外側から見ると「事物」だけれど,「見えない裏」=内側から見ると「統合された情報」である.事物と意識とを「統合された情報」としてリンクさせた記述方法を考える.
世界の一項目としての私ではなく,状況としての私ということをいかにして記述していくのか.「ただそれが外部世界の中で生きて動くとき,その外部世界をも含めての構えが「私がここ,その体のあるあたり,に居る」ことなのです」ということをいかに体験として記述していくのか.地図アプリの「現在地」のように,この世界にいることが記述できればいいなと思った.現在地も動き,世界も動く,それを私が体験しながら,世界を動いている.世界を充満する光線の束に私がいて,瞼を開けて,光線を受け入れている.光線を受けれると,立ち現われが生じる.これまでの私の体験から構成された予測を元にした世界と光線の情報との誤差を修正しながら,視覚だけでなく,他の感覚からの情報や今の私の身体で起きているあらゆる情報もまた世界と統合されていく.誤差を修正するだけではなく,最終的に,世界と私とは状況として統合される必要がある.しかし,このように考えると世界の一項目としての私になってしまう.あらかじめ状況として統合されているなかで,状況を予測とともにアップデートし続けるということになるだろう.情報の統合を止めることができない脳と世界との関係.脳が世界でもなく,世界が脳でもなく,脳はあらゆる情報を統合していく.統合を止められない.情報のもとで脳と世界とがつくる状況があり,その状況は統合された情報がつくり出している.
三 心の働き(意志)
「もの」ということを「統合された情報」として考えてみる.私というのは私的に統合された情報として処理されていく.何に処理されるのか.それは情報を統合していこうとする力である.それは意識でもなく,神でもなく,情報そのものが持つ性質であり,力なのではないだろうか.