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245:大森荘蔵『新視覚新論』を読みながら考える11──10章 心

脳が予測に基づいて外界を認知・行為していくことを前提にして,大森荘蔵『新視覚新論』を読み進めていきながら,ヒト以上の存在として情報を考え,インターフェイスのことなどを考えいきたい.

このテキストは,大森の『新視覚新論』の読解ではなく,この本を手掛かりにして,今の自分の考えをまとめていきたいと考えている.なので,私の考えが先で,その後ろに,その考えを書くことになった大森の文章という順番になっている.

引用の出典がないものは全て,大森荘蔵『新視覚新論』Kindle版からである.



一 心に浮かぶもの

大学で担当している「メディアアート論」で,長田奈緒の個展「少なくとも一つ」を取り上げた回の学生のコメントに「長田奈緒さんの『少なくとも一つの』を見ていると、どちらもモノもどきであるのに、どちらが本物かを無意識に考えてしまった。どちらかが本物だと信じてしまうリアルさ、しかしどちらも虚偽である奇妙さ。」とあったことを思い出した.二つの「写し」が近くにあると片方を「本物」だと思ってしまう.しかし,それは二つとも「虚偽」である.虚偽であるのにどちらかを本物だと思ってしまう.大森は「写し」はないとして,そこに登場しているのは「本物」であるとする.大森の考えでいうと「どちらかを本物とする」こと自体が間違いなわけだけれど,同じものが二つあったときにどちらかを「本物」とみなしたり,「私の」として選ぶことは事後的分類になるだろうか.大森の考えで,長田奈緒の個展「少なくとも一つ」をもう一度考えたくなった.

上のことを簡単にいうと次のようになります.何かの「写し」が何の「写し」であるかがわかっている,ということはとりもなおさず,その「何か」自身が「思い浮んでいる」ということである.つまり,「思い浮ぶ」という経験の中では,同定された「写し」はその本物とペアになっている.そしてこのこと自身は経験的な事実だとか法則だとかではなくて,意味の上からして(つまり論理的必然的に)そうなのです.「写し」である限り何かの「写し」だという意味でなければならず,その「何か」が了解されているということは,その「何か」が「思い浮んでいる」という意味に他ならないからです.p. 306

この点,つまり登場するのは一つのものであって二つのものではないということを認めるならば,そしてもし「写し」が登場するなら必ず本物も連れて登場するということを認めるならば,答えは一つです.登場するのは本物であって「写し」ではない.先に述べた錯誤はこうして自己破壊するのです.p. 306

この辺りを読んでいるときに,it-from-bitの世界観で大森の考え方を記述するとどうなるだろうかを考えていた.世界の源に情報があるとして,ある統合された情報が事物となる.その事物がヒトの意識に立ち現われる.この「立ち現われ」を意識で改めて統合された情報として考える.そうすると,情報が統合されて事物が現れて,事物を媒介にして,意識で改めて情報の統合が起こり,立ち現われが生じる.事物=itは媒介の役割を担うものとして,世界に展開している.情報を統合されたかたちで保存しているのが事物で,それが認知され,改めて統合されて様々に立ち現われるときに,事後的分類が起こり,情報が増えていく.複数の立ち現われ=情報は,ネルソン・グッドマンが言う「バリエーション」として,それぞれの世界を制作していくことになる.

要するに「虚偽の犬」も立派な本物の犬であること「真実の犬」と変わりはありません.ただ後者が「真実の犬」と分類されて立ち現われるのに対し,前者の立ち現われは「虚偽」として分類されるのです.ここで,「虚偽」なるものは「無」でありどんな形にでも立ち現われることはありえない,と考えるのが上に述べた偏見です.そして,その偏見から,だから立ち現われているのは「真実なる」犬影でしかありえない(「影」としてはそれは真実である,と考えられます),と考えるのが上に述べた錯誤なのです.しかし事実はそうでないことはこれまで述べてきたとおりです.また虚心に自分の経験を反省してみれば簡単にわかることです.様々な幻,様々な見間違いや聞き違い,様々な思い違い,それらは日夜,真実なるものと入り乱れ交錯して立ち現われています.われわれはそれを実践的な観点から真なるものと虚偽なるもの,そして真偽を保留したもの,等々に分類するのです.ですからこの分類では「虚偽」(絵空事)とされたものが時によっては「真なるもの」より遙かに強くわれわれを感動させあるいは脅かすこともあるのは当然のことです.更に「虚偽」なるものにより高い価値をおく(「真実」は下男の仕事,と)ことも十分に可能なのです.要するに,虚偽といい真実というものは,様々な立ち現われ(知覚的,想起的,想像的,等々の立ち現われ)の中での事後的分類である,ということです.p. 316

二 心の働き(認識)

『新視覚新論』を「瞼」の哲学として考えたいと,ずっと思っている.「瞼を閉じたって何かが見えています.瞼の裏が見えています」や「瞼はポータブルで自動操縦できる肉質カーテンなのです」というところから,瞼について考えたい.私は「瞼を情報を単調化するフィルター」として捉えている.瞼を閉じた一瞬だけ,あらゆる立ち現われが消える感じがある.世界からの情報で立ち現われが立ち現われるが阻害されるというか,立ち現われが起こるのに必要な情報が瞼によって遮断される.「遮断」とかくと大森の考えと異なる.瞼を閉じても見えている=情報は入ってくる.しかし,その情報が瞼を透過するときに単調化されるので,立ち現われのために必要な情報を提供しない.瞼のこちら側を見るというよりは,瞼を透過してきた立ち現われをブートストラップするのに必要な情報が無効化された光の集合を見ているということになるだろう.

ここでぎりぎりのところ「見ること」とは「見られるものごと」に対してそれらを「見る作用」である,と言いたくなるでしょう.しかしこれはまことにいい加減な言い方であると私には思われます.薬が作用する,力が作用する,それはよくわかります.しかし,心が作用してあれこれのものが見える,これは何のことか皆目わかりません.わからないなんてことはない,君は今何かを見ているだろう,その見ていることを「作用」というのだ,と𠮟られましょう.なるほど,瞼をあげればものが見え,閉じれば見えなくなります.しかし瞼を開閉したり目かくしを脱着したりすることが「見る作用」であるなどとは誰も言いたくないでしょう.実際,瞼を閉じたって何かが見えています.瞼の裏が見えています.それはカーテンを閉じると窓の外が見えなくなりますが今度はカーテンのこちら側が見えるのと何ら変わりはありません.瞼はポータブルで自動操縦できる肉質カーテンなのです.ですからカーテンの開け閉めが「見る作用」であり「心の作用」である,などとは誰も考えはしません.p. 322

下の箇所を読んだ過去の自分は「表裏一体.表=見えるものが変化すれば,すなわち,裏=見えないものも変化する.」とメモしている.表裏一体の変化を記述する方法がいまだに見つからない.金井良太の『AIに意識は生まれるか』の「まず前提だが, IITは,心(意識)と物(物理世界)を分けて考える心身二元論の立場はとらず,あくまで意識は一つしかないとしている.その一つの現象を,内側から見ると意識で,外側から見ると統合された情報になる……というのが IITだ.p. 117」を参考に考えるのがいいのかもしれない.意識とは逆に,世界の事物は「見える表」=外側から見ると「事物」だけれど,「見えない裏」=内側から見ると「統合された情報」である.事物と意識とを「統合された情報」としてリンクさせた記述方法を考える.

いずれにせよこの考えは「写し」の考えの一変種であるという理由で私は拒否せざるをえません.しかしそれにせよ,この考え方の中に見られる「表と裏」は示唆的です.というのは,このことが示すことは,脳がどうこうしたから何かが見える,といった「原因結果」の関係ではなく,表からみればこう,それを裏からみればこう,といった「即ち」の関係をここに見てとるべきではないか,ということです(それが,「重ね描き」の二つの描写の関係です).今私にあれこれのものが見えています.そのとき私には見えてはならないあれこれが同時に起っているのです.光だとか脳とかです.それは物理学者や生理学者がいろいろな器具や理論を使って確かめたのです.つまり,「見える表」は即ち「見えない裏」でもあるのです.しかし,「見えない舞台裏」でいろいろの事が行なわれその結果「見える舞台」が生じた,というのではないのです.ここには舞台裏はありません.一つの舞台の上に「見えるもの」と,例えば空気や光のような「見えないもの」とがあるのです.「見える」を表,「見えない」を裏と呼べば上のように表と裏の比喩になりますが,実は表裏一体なのです.表裏一体なのですからその一方が何かで変化をうければ,それはとりもなおさず他方の変化でもあるのです.それで,「原因結果の関係」ではなくて「即ちの関係」だといったのです.p. 326

世界の一項目としての私ではなく,状況としての私ということをいかにして記述していくのか.「ただそれが外部世界の中で生きて動くとき,その外部世界をも含めての構えが「私がここ,その体のあるあたり,に居る」ことなのです」ということをいかに体験として記述していくのか.地図アプリの「現在地」のように,この世界にいることが記述できればいいなと思った.現在地も動き,世界も動く,それを私が体験しながら,世界を動いている.世界を充満する光線の束に私がいて,瞼を開けて,光線を受け入れている.光線を受けれると,立ち現われが生じる.これまでの私の体験から構成された予測を元にした世界と光線の情報との誤差を修正しながら,視覚だけでなく,他の感覚からの情報や今の私の身体で起きているあらゆる情報もまた世界と統合されていく.誤差を修正するだけではなく,最終的に,世界と私とは状況として統合される必要がある.しかし,このように考えると世界の一項目としての私になってしまう.あらかじめ状況として統合されているなかで,状況を予測とともにアップデートし続けるということになるだろう.情報の統合を止めることができない脳と世界との関係.脳が世界でもなく,世界が脳でもなく,脳はあらゆる情報を統合していく.統合を止められない.情報のもとで脳と世界とがつくる状況があり,その状況は統合された情報がつくり出している.

簡単に言うならば,私は世界の一項目としては存在しないのです.世界の一構成部分として登場しているのではないのです.私は世界の部品ではありません.ただその世界のあり方が「私がここに居る」ことなのです.そして「ここ」以外に私が居ることはありえません.私は「ここをはずす」ことはできないのです.ただその「ここ」を物指しでセンチメートル単位まで測定することはできません.「私」は空間的事物としても空間的領域としても存在しないのですから.ただ,苦痛と快楽の領域,生と死の領域,動きの自由と重荷の領域,としては私の五体がほぼそれです.それは現代の刑法の定める「私」の領域でもあります.しかしこの領域が「私」なるものだなどとはいえません.体は事物の一つに過ぎません.一片の肉塊,赤色団子だと言っても誤りではないでしょう.ただそれが外部世界の中で生きて動くとき,その外部世界をも含めての構えが「私がここ,その体のあるあたり,に居る」ことなのです.p. 333

三 心の働き(意志)

「もの」ということを「統合された情報」として考えてみる.私というのは私的に統合された情報として処理されていく.何に処理されるのか.それは情報を統合していこうとする力である.それは意識でもなく,神でもなく,情報そのものが持つ性質であり,力なのではないだろうか.

しかしもっと自然に眺めることができるのではないでしょうか.私の手は自由に動かすこともできれば,切れば痛む,そういう「もの」なのです.そしてそれをバラせば電子や陽子になるそういう「もの」なのです.それは机や紙とはひどく違う「もの」なのです.しかし肩から切り落すとその途端に机や紙と似たものになる,そういう「もの」なのです.しかしそれが胴体と連なっている限り「私である」,そういう「もの」です.ここで「私である」とは,「私」なるものがあり,腕や胴はその「私」に等しいとか,その一部である,というのではありません.先にも述べたように,世界の在庫目録の中の一項目としての「私」などはないのです.ですから胴につながった腕が「私である」とは,胴から離れた腕や机や紙とは違って,その腕は「私的」だということです.この「私的」とはどういうことか,それは誰でも知っていることです.ただここでいいたいのは「私的」が形容詞だということです.切れば痛く,自由に動かせる,そうしたことを大よそにいう形容詞です.それは大ざっぱな言葉で,爪の先はどうかとか,マヒしたらどうかなどという詮議はコンマ以下のこととして無視できる言葉です.p. 350

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