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185:描写されるべき「細部」は知覚が要求する拡張度(解像度)に応じていわばオンデマンドで逐次埋め合わされる

21)ベルクソンは,記憶のトップダウン回路により,ともかく「全体」を構成してしまった上で,描写されるべき「細部」は知覚が要求する拡張度(解像度)に応じていわばオンデマンドで逐次埋め合わされるという,現代の予測コーディングフレームワークの考えに照らしても興味深い注意理論を展開している(MM,115),デネットが強調するように,意識される表象知覚も,実は注意の必要に応じた局所的な仕上げしかほどこされていない,手抜き工事の産物であるにもかかわらず,そのくせ隅々まで描き込まれた錯覚を与えるようにできているから,たちが悪い.Cf. 佐藤亮司(2014)p. 199

『ベルクソン『物質と記憶』を解剖する──現代知覚理論・時間論・心の哲学との接続』に収められた,平井靖史「現在の厚みとは何か?───ベルクソンの二重知覚システムと時間存在論」の注からの引用.平井さんは,ベルクソンと現代の科学を結びつけて興味深い論考を数多く発表していて,いつも勉強させてもらっています.

今回はこれまでと同じ興味で「予測」についての引用になりますが,ベルクソンと絡めているのがいい.ベルクソンも当時の科学的知見を取り入れた哲学をしていたので,ベルクソンを論じるときに現代の科学的知見を参照するのは相性がいい感じがします.

「ベルクソンは,記憶のトップダウン回路により,ともかく「全体」を構成してしまった上で,描写されるべき「細部」は知覚が要求する拡張度(解像度)に応じていわばオンデマンドで逐次埋め合わされる」という部分で,デジタル以降の加工を当たり前にした写真について書けないなかなと考えていてます.

写真はある一定の時間の光の情報を一定の平面で受け取って,イメージをつくるものだと考えられます.そのときに,写真が興味深いのは,高精細度の解像度で平面を覆い尽くしてしまうということです.ベルクソンや現代の予測コーディングフレームワークによると,ヒトの視覚的情報の認識はもっと低解像でざっと行われて,求められれば=注意を向ければ,その箇所を高解像度にしていくことになります.注意を向けられると,外部には様々な要因があって,どうしても予測モデルと異なる部分が出てきて,その細部が修正されていって,予測モデルが高精細になっていきます.でも,きっと視野全体を覆うまで解像度を高めるということは非効率であって,視野にはきっと低解像度の部分が残っているのかなと思います.しかし,普段は,低解像度も部分に注意がいかないように,視野全体があたかも「写真」のように高精細な解像度の表象となっているような推論を行い,,ヒトはその推論を認識を認識していると考えてみたいです.

平井さんも書いていますが「錯覚」によって,高解像度の表象をつくりあげているというか,予測モデルが高解像度であるかのように仕立ててあげているような内部からの流れがあるのかなと思います.あるいは,低解像度表象に高解像度表象を重ねつつ,低解像度と高解像度との境目,高解像度同時の境目を見えないように推論しているのかもしているのかも知れません.

カバー画像は,エキソニモの作品《A cracked window, sliced》の一部です.


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