見出し画像

233:ここ5年くらいで考えていきたいこと🧠📖

小説とメディアテクノロジーとを絡めて論じるN・キャサリン・ヘイルズは,ヒトとコンピュータとをともに世界を解釈してあらたな意味を生み出していく「認知者(Cognizers)」という存在と捉え,物質や無生物の「非認知者(Noncognizers)」と区別している.そして,認知者は「意識のモード」,「非意識的認知」,「物質的プロセス」という3つの部分で構成されたピラミッド型の「認知のフレームワーク」で世界を認知しているとされる.ピラミッド最上部の「意識のモード」は意識と無意識とで構成されており,私たちが通常想定する「意識」となる.その下にある「非意識的認知」は,予測に基づいた推論で構成される内部モデルを形成して,意識にのぼる前の膨大な情報を処理しているとされる.私はヘイルズの「非意識的認知」という言葉にある「非意識」という領域が,ヒトと世界との関係を考える際に重要になってくると考えいる.例えば,ヘイルズはコンピュータの情報処理は非意識レベルのものだと指摘する.このように考えると,ヒトとコンピュータはともに「認知者」として,「非意識」レベルでインタラクションしていると想定することができる.そこから,膨大な言語データにおける単語のつながりの強さを「注意」の値として処理した大規模言語モデルが確率的に並べていく文字列に,ヒトが意味を見出してしまうのは意識に上がらない「非意識」レベルでのつながりがあるからだと考えられるようなる.

では,非意識とは何なのか.ヒトの認知プロセスで考えるとそれは脳がつくる世界の「予測モデル」だと言えるだろう.哲学者のヤコブ・ホーヴィは『予測する心』で「脳は予測誤差を最小化する」器官だと主張する.外界の情報を眼や耳などの感覚が受け取り,脳が世界についての予測モデルをつくっていく.そして,脳は予測モデルと外界そのものとの誤差を最小化していくことを目指して,知覚して,行為をしていく.脳は外界を直接見ることも聞くこともできないので,眼や耳などの感覚センサーから得た情報から世界のあり方を予測するしかない.私たちは生まれてきてから死ぬまで外界から情報を得て,予測モデルをつくり,修正し,アップデートして,その誤差を最小化し続ける.予測モデルと外界とのあいだで最小化された誤差情報が意識に現れてはじめて,ヒトは世界を認識し,その認識に基づいて行為をしていく.予測モデルがないと世界を認知できないけれど,予測モデルそのものが意識に現れることはない.意識に上るのは予測モデルとの誤差が最小化されるように調整された外界からの情報だからである.以上のことから,私は非意識は外界との誤差を最小化するように常に変化している予測モデルだと考えている.

このように意識では捉えられない,かといって,無意識のように抑圧されたものではなく,意識以前に世界認知を媒介するための非意識=予測モデルがあって,はじめて世界を認知・認識できるという考え方は.神経科学や意識研究の進展によって明らかになってきた.私はそれらの知見に呼応して,自らの認知プロセスを科学とは異なる方法で掬い取っていきたい.そのためにヒトとコンピュータという認知者同士が結びつく表現としてのメディアアートの作品やインターフェイスのデザインを考えてきたと言える.

これからもこの二つを研究対象にしていくが,これらに加えて,言語を巧みに使い非意識にアクセスしようとするメディアとしての小説を考えてきたいと思うようになった.小説を分析対象にしたいと思うようになったのは,いぬのせなか座の山本浩貴の大江健三郎論「新たな距離」に以下の記述を読んだからである.

はたして,言葉が単文に回収しきれない視覚的(聴覚的,触覚的……)情報を表現しなければならないときに生じてしまう,いびつなテクストの配置関係,ならびにその配置関係がみずからの制作者に強いるところの,思考・想起の様態によって,小説の制作行為は,読み手を絡ませながら,私の思考の制作,さらには(ちりぢりな)私による(まとまりの)私の制作,というイメージにまで,直結しなければならなくなる.(4)
(4)小説の持つこのような性質は,伝統的に備わっている認知運動の枠組みとしての語り手を,「Phoneを持つ生きもの」にふさわしい姿へ発達させようとする小説家が,みずからの意思とは無関係に選び取ってしまう戦略的回路でもある.

山本浩貴「新たな距離」

「Phoneを持つ生きもの」の認知プロセスを言語で記述するメディアとして小説を捉えるのは,メディアアートやコンピュータのインターフェイスについて考えてきた私にとって,とても新鮮なアイデアであった.私はこの一文を読んで以来,意識に現れない非意識をコンピュータを用いた実験で検出していく科学的手法以外で,非意識にアクセスし,それを意識可能な表れにする試みとして小説を考える必要があると考えるようになった.ヒトとコンピュータとを認知者として繋いでいくものとみなしてメディアアートとインターフェイスの考察を行なっていくだけでなく,「Phoneを持つ生きもの」の環境を言葉で記述する制作実践としての小説を非意識にアクセスする試みとして,自分のこれまでの研究にリンクさせていきたい.

小説から非意識を考える例として,村上春樹の『街とその不確かな壁』を挙げてみたい.

頭の内で現実と非現実が激しくせめぎ合い交錯した.私は今まさに,こちらの世界とあちらの世界との狭間に立っている.ここは意識と非意識との薄い接面であり,私は今どちらの世界に属するべきなのか選択を迫られている.

村上春樹『街とその不確かな壁』

『街とその不確かな壁』には,二箇所「非意識」という言葉が出てくる.上の引用はそのうちの一つである.『街とその不確かな壁』と同一の成り立ちでiPhone以前に書かれた『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』には「無意識」は出てきますが,「非意識」は出てこない.村上が「非意識」と「無意識」との区別をどのように考えているかはわからないけれど,この言葉の変化は,iPhone以後の意識のあり方を考える私にとっては興味深いものである.さらに,おそらく村上はiPhoneは重視していないけれど,世界がスマートフォンで変わったことは感じているだろう.スマートフォンで変わった世界においては,意識と無意識に加えて,意識と非意識という関係が現れたことを,彼は記述しようとしていると考えることができる.非意識は私の意識に属さない領域ですが,かと言って,そこで処理される情報は,私の身体のセンサーによって捉えられたものであるから,世界そのものでもない.非意識は私の意識と世界とのどちらにも属さない予測モデルとして存在し,そこで私のこれまでの履歴と世界の情報が重ね合わせられるように処理されることで,私と世界の双方が意識に立ち現れてくる.『街とその不確かな壁』は,スマートフォンの登場とともに私と世界とのあいだに現れたそのどちらにも属さない非意識という予測モデルの不確かさを記述しようとしている感じがしている.これは世界が明確に二つに分かれていた『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』にはなかった感じである.

また,メディアアートとインターフェイスにおいても「デジタル技術やコンピュータとともに使われるようになった「ピクセル」や「解像度」といった言葉に着目して,改めて,情報とヒトとの関係を考えていきたい.例えば,エキソニモが「Sliced (series)」というグラフィック作品を作成している.この作品で,エキソニモは高解像度表象とモザイクや色面といった異なる解像度による表象を混在させている.複数の解像度を一つのフレームに重ね合わせて表示するとき,一つの対象を同一の視点から捉えつつも,複数の現れが表出されるようになる.複数の現れは同一の物理状態から入力された情報が解像度によって変化したものなので,それらは複数の現れでありながら,おおもとの情報は同じということになる.キュビスムなどで同一の対象を複数の視点から捉える試みはされてきたが,同一の視点から複数の現れを同時に示すためには「解像度」という単位と,解像度によって自在に大きさを変える「ピクセル」が必要だったと,私は考えている.また,コンピュータ科学者のアルヴィ・レイ・スミスは「ピクセルは個々の点でのサンプルである.それは幾何学(な形)を持たない」と主張していますが,彼の主張はエキソニモの作品とともに「ピクセル」と「解像度」という言葉を改めて考えるヒントになるだろう.なぜなら,ピクセルは現実世界をサンプリングした点なので,サンプリングレートの変更によって,解像度に基づいて大きさを変えるピクセルがつくる離散的表象はいかようにも変わっていくからである.また,解像度を変更する度に周囲のピクセルとの関係でピクセルの色の変更が生じる.解像度ごとの規則によって世界を切り抜く型の大きさが変わり,複数のピクセルが一つの「ピクセル」として設定されて,その「ピクセル」が示す色が決定されていく.そこでは,外界との誤差を最小化していくなかで,網膜に入力された色情報と予測モデルがもつ情報との誤差から色を変えていくヒトの認知プロセスと同じようなことが起こっていると言え流だろう.ピクセルをディスプレイの構造に基づく物質の単位ではなく,解像度に基づいて世界を自在にサンプリングしていく情報的存在と捉え直すと,ピクセルや解像度の意味が変わってくるはずである.このようなかたちで,私はデジタル技術やコンピュータとともに現れた言葉を再検討しながら,ヒトの認知プロセスや意識を捉え直す考察を行っていきたい.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?