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128:データレベルで音の予測可能性を放棄しつつ,見えている部分で操作の再現性を追及する

城一裕のパフォーマンスを見ていると,城はそこで何をしているのかといつも思う.城はIllustratorで図形を描き,データをUSBメモリに入れて,レーザーカッターに繋がれたパソコンにデータをコピーする.データに基づいた図形をレーザーカッターでアルマイトの板に刻むために,城は調整作業を行っている.調整を終えると,城はレザーカッターに図形を刻む.図形が刻まれたアルマイトの板は蓄音機に載せられて,音を出す.

パフォーマンスの前半部分を記述してみたが,城はIllustratorで描かれる図形を描く方法を公開している.

城にとっては「作り方」は秘密ではない.なので,私でも城のパフォーマンスを真似することはできる.「作り方」を知らない人にとっては,城の行為は不思議なものであるが,「作り方」を知っている人にとっては,既知の行為である.城は上のスライドで,初心者にもわかるように丁寧に「作り方」を教えてくれているので,多く人はIllustratorを使って,「予め吹き込むべき音響のないレコード」をつくることができる.それは昨日書いたように城が開発するまでは当たり前ではなかった,音が「ギザギザのライン」にしかないという状態を誰もがつくれることを意味する.

城のこの態度を考えるヒントが ucnv の「グリッチアート試論」に書いてあった.

同じ素材から生まれるグリッチのヴァリエーションの列挙は,データベンディング作品ではよく用いられる手法である.そしてそのような作品を作る作家は,制作プロセスを説明的に開示することが多い.たとえば,stAllio! ことベンジャミン・バーグ(Benjamin Berg)はデータベンディング作品を制作しつつ2008年からブログにそのハウツーを掲載している.hellocatfood ことアントニオ・ロバーツ(Antonio ROberts)はそのファイルフォーマット間のグリッチの違いに注目した映像作品「What is Your Glitch?」(2012)に用いたプログラムをオープンソースで公開している.これらの事例が示すのは,彼らが提出しようとする芸術的価値が制作プロセスの中にあり,その理解を通じてこそ作品の受容が達成されるという主張である.文書という作品形式をメンクマンが選択したのもまた,そのような意思の表れとみなすことができる.データベンディングは純粋に表象を作り出すことができ,そこに何の表現行為を導入することなく芸術作品となる可能性を持つ.しかしデータベンディングを用いる作家たちは,その点に注目するに留まらず,制作プロセスや構造を説明することで,鑑賞者の理解をユーザー的グリッチ観から開発者的グリッチ観へ導こうとする. p. 260

ucnvがグリッチアートについて書くことを参照してみると,城は「開発者的グリッチ観」をもち,「芸術的価値が制作プロセスの中にあり,その理解を通じてこそ作品の受容が達成されるという主張」していると考えられるだろう.城の「予め吹き込むべき音響のないレコード」がつくる「音がギザギザのラインにしかない」状態というのは,グリッチになぞらえて捉えるのがいいのかもしれない.一回きりの現象を再現していくグリッチアートと,城の「予め吹き込むべき音響のないレコード」とは似ているような気がする.開発者としてのグリッチアーティストは一回きりの現象を再現するために,ファイルフォーマットを解読していくのだが,城もまた,最初は本当に「予め吹き込むべき音響のない」状態だったと言えるが,今では,Illustratorの操作とともに再生される音響を知っているはずである.

グリッチとは開発者にとっては予測可能であることが期待される現象である.データベンディングが画像の表示に及ぼす効果に関しても同じように言える.あくまで理論的に言えばという前提付きではあるが,データベンディングでどのバイトをどう変化させたら表示がどう変わるかは,完全に予測可能である.しかし,グリッチアーティストは開発者的観点からそうと知りつつも,予測可能にすることを追求することはない.なぜなら,予測不可能性をあえてコンピュータ環境生来の状態に保ちたいと思っているからである. p.258

城は「予め吹き込むべき音響のないレコード」をつくる方法の開発者として,グリッチアーティストと同様に理論的には予測可能であることを知りながら,予測可能性を追及することはない.予測可能性を追及しないということの帰結が,Illustratorで引かれているギザギザのラインである.城はグリッチアーティストのレベルでデータを操作しないことで,予測可能性を放棄している.Illustratorの図形の背後にはデータがあるが,城はそこにはアクセスしない.あくまでインターフェイスで見えている部分だけで,音の操作を行う.それは,文字通り図形を音に変換する.図形の背後にあるデータを音に変換するわけではない.開発者側に立つならば,城は図形の背後にあるデータを音に変換することもできるはずであるが,ここにおいては,ディスプレイに見えている図形に留まって作業をしていることになる.

城の「予め吹き込むべき音響のないレコード」を考えるときには,城が「開発者的グリッチ観」に似た態度を持つと仮定し,同時に,ディスプレイに見えている部分に留まっているということを合わせて考える必要がある.城はデータレベルではなく見えているレベルに留まることで,データレベルでの予測可能性を放棄しつつ,操作の再現性を追求して,音をつくり出している.


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