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130:「ギザギザのライン」が「無音」で存在しているように感じた

城一裕はコンピュータから音を出さない.「予め吹き込むべき音響のないレコード」で「ギザギザのライン」を描くが,そのラインを構成するデータはコンピュータ内部で変換されて,音となることはない.Illustratorで描かれた「ギザギザのライン」は,文字通り「ギザギザのライン」としてディスプレイに表示されている.

中川克志の「音響記録複製テクノロジーの起源───帰結としてのフォノトグラフ、起源としてのフォノトグラフ」は,1877年にエジソンによって開発され,記録された人間の声が世界で初めて音声として復元したフォノグラム以前,1860年に人の声を記録したフォノトグラムについての論考である.中川によるとフォノトグラムとは次のような装置である.

さて,フォノトグラフとはどのような機械なのか? これは,送話口(フォノグラフにおける送話口かつ再生口)に取り付けられた振動膜が空気振動としての音を捉え,膜に取り付けられた針(豚の剛毛)が,その振動膜の振動を,油煙紙(あるいは円筒に塗られた油煙)に波形として記録する機械だった. p. 4

フォノトグラムによって,音響振動がはじめて視覚的な記号に変換されたのだが,この装置では音を復元することは考えられていない.なぜなら,中川によるとフォノトグラムが開発された1860年代は「音声を記録すること=音声を視覚化すること」を意味していたからである.その後,「音声を記録すること」は「音声を視覚化すること」から「音声としての復元を志向すること」に変化していく.この枠組みの変化のなかで,フォノトグラムが記録した視覚化された音声が,2008年に音声と復元された.中川は,音声に復元されることを志向していなかったフォノトグラムの視覚的記号が音声に復元されてしまったがゆえに,そこには「奇妙さ」があるとしている.

中川が指摘する音に対する二つの志向には「音声を記録すること」が共通しているけれど,城の「予め吹き込むべき音響のないレコード」ではこの部分が欠落している.さらに,城には「音(声)を記録すること」がないから,「音(声)としての復元を志向すること」もないと言えるだろう.ゆえに,「予め吹き込むべき音響のないレコード」には「音(声)を視覚化すること」しかない.中川が指摘する音に関してのパラダイムの変化を無効化して,単に「音(声)を視覚化すること」しかないから,城の「予め吹き込むべき音響のないレコード」は「奇妙な」モノになっているのであろう.

しかし,「視覚化された音(声)」は,「視覚化された」ものであっても「音(声)」として想定されているから,何かしらの音を生成することができる.だから,城の「予め吹き込むべき音響のないレコード」は音を出せる.Illustratorのアートボード上に描かれた「ギザギザのライン」はどのようにしても,そこから音がすることはない.それは視覚的情報でしかない.しかし,「ギザギザのライン」を忠実に紙やアルマイトの板の表面に刻むと,そこからは音である.表面を変えて,線をピクセルの集合から表面に切り込みを入れると音がなる.

このように考えてくると「予め吹き込むべき音響のないレコード」のためにIllustratorで描かれる「ギザギザのライン」は「楽譜」のようにも思えてくる.

記述物の場合,それらの記号は文字や単語として───すなわちソシュールのいう聴覚映像の投射として───認識される.それらは精神の表面に刻印されるがごとく,紙の表面に印刷されている.そしてそれらが表わしているはずのもの,すなわち観念や概念へと,わたしたちを直ちに導く.一方,文字や単語ではなく楽譜上の音符や楽句として記号を認識する場合,それらは観念や概念の代替物ではなく,音それ自体と見なされる.つまり言語と音楽とでは,意味作用の方向が正反対なのだ.記述物の読解は認識作用の審級にあり,テクストに書きこまれた意味を取り込む.一方,音楽を読む行為は演奏の審級にあり,楽譜に書きこまれた指示を実行にうつす.言うなれば,前者は私たちを絶えず内側に,深い思索の領域へと引き込み,後者は私たちを絶えず外側に,音の環境世界へと押し出す.p. 33

ティム・インゴルトが『ラインズ』で書くのと同じように「予め吹き込むべき音響のないレコード」で刻まれた「ギザギザのライン」は,蓄音器やレコードプレイヤーによって実行されて,振動を生み出し,音を発する.では,城は蓄音器やレコードプレイヤーのための「楽譜」を作成しているのであろうか.城は「数」の変換で音を出すことはしない,「音符」でも音を出さないが,「ギザギザのライン」を描くことで,蓄音器やレコードプレーヤーに音を出す指示を与え,音を出していると考えられるのだろうか.

城が「予め吹き込むべき音響のないレコード」を説明する際に必ず言及するモホリ=ナギの言葉から考えてみよう

再生する楽器であるグラモフォンから再生ではなく創造􏰀する楽器をつくること,そしてあらかじめ吹き込むべき音響なしにいきなり必要な溝をそこに掘り込み,そのレコー ド盤上で音響という現象じたいを発生させるようにすること.
Moholy-Nagy, L. New Plasticism in Music. Possibilities of the Gramophone, in Ursula Block and Michael Glasmeier, eds., Broken Music. Artists’ Recordworks, Berlin: Berliner, Künstlerprogramm des DAAD and gelbe MUSIK, pp. 53-58 (1989). (Chapter originally published 1923.)

モホリ=ナギの言葉から考えると,城は再生する楽器である蓄音器やレコードプレイヤーから「音響という現象じたいを発生させる」ための「楽譜」として機能する「ギザギザのライン」をIllustratorで描いていると言えるだろう.

ここまで書いてきたのだが,どうも釈然としないのは「視覚化された音(声)」というところかもしれない.城が「予め吹き込むべき音響のないレコード」のためにIllustratorで描く「ギザギザのライン」は,「視覚化された音(声)」というには「無音」でありすぎる感じがする.「ギザギザのライン」は「音(声)を記録すること」で生み出されたものでもなければ,「数」を介して音に変換されることもなく,ただディスプレイに表示されている.それは最終的には,音を出すものではあるのだが,ディスプレイに表示されている段階では,1860年代以降の音に関して大きなウェイトを占めてきた「記録」と,コンピュータ以後の音での「加工」や「生成」といったものから切り離されている感じがするのである.だから,「ギザギザのライン」が「無音」で存在しているように感じたのかもしない.

城の「予め吹き込むべき音響のないレコード」について考えた最初のnoteのタイトルは「音はギザギザのラインだけにある」であったけれど,今回書いたテキストでは「ギザギザのライン」から「音」が消えてしまいった.しかし,「音はギザギザのラインだけにある」は紙やアルマイトに刻まれたラインであり,今回はディスプレイ上のラインになっている.この二つのラインのあいだには何があるのだろうか.



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