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195:This approach denies the inherent variability of media art

Following Turing, computation and thus artworks requiring computation can be performed on any computer that can provide the right functionality. Following Benjamin, media art has no aura, and the idea of one true original is ludicrous. Following Fried, media art exudes presence in that it is not self-contained and is highly contingent on equipment, user interaction, real time revelation, or any number of extrinsic variables. Yet some in the world of museums and preservation continue to argue in order to properly preserve media art, we should collect the "authentic" computer, software, and bits, store them as self-contained artifacts, and exhibit them in their "original" form. This approach denies the inherent variability of media art, or at least sees it as a corrupting force against the that, power of authenticity to which museums have been handmaidens centuries. The ancient assumption that all artworks should retain an aura and the modernist ideal that they exhibit presentness are based on notions. pp. 52-53

チューリングによれば,計算,つまり計算を必要とする芸術作品は,適切な機能を提供できるコンピュータであれば,どんなものでも実行できる.ベンヤミンに倣うと,メディアアートにはオーラがなく,真のオリジナルは一つという考えはおかしいものになる.フリードに従えば,メディアアートは,自己完結的ではなく,機器やユーザのインタラクション,リアルタイムな啓示など,さまざまな外在的変数に大きく左右されるという点で,存在感を示している.しかし,美術館や保存の世界はメディアアートを正しく保存するするために,「本物」のコンピュータ,ソフトウェア,ビットを収集し,それらを自己完結的なアーティファクトとして保存し,「オリジナル」の形で展示するべきだと主張し続けている.このアプローチは,メディアアートが本来もっている可変性を否定するものであり,少なくとも,美術館が何世紀にもわたって手本としてきた「真正性」という力に対して,メディアアートが破壊的な力をもっているとみなすものである.すべての芸術作品はオーラを保つべきだという古代の前提や現在性を示すというモダニズムの理想は「真正性」についての考えに基づいている. pp.52-53(DeepLの翻訳を少し手直し)

Richard Rinehart, Jon Ippolito, "Re-collection: Art, New Media, and Social Memory" からの引用.

チューリング,ベンヤミン,フリードという名前を並べて,メディアアートの特徴をまとめているのが興味深い.そして,これらの名前で説明されるメディアアートは「可変性」を基本的性質とするもので,「真正性」を基本とする従来の美術館や保存の原理とは相反するものである.

メディアアートはつねに変わり続けるのだとすれば,そこに「死」はあるのだろうか.「真正性」のもとで「本物」「オリジナル」という言葉が使われるときには,そこに確かに一つのモノがあって,それは変わらない固定された状態であることが前提となっている.モノも時間とともに状態を変えているので,厳密に言えば絶えず変わっているのだが,その外見から判断すると同一性が保たれているし,修復が必要とされる場合も外界の同一性が一つの基準となっている.だから,この同一性が損なわれるときに「死」という言葉が使われることがある.

しかし,「可変性」を基本的な性質とするメディアアートにおいては,つねに変わり続けるのだから,外見が変わっても同一の作品とみなされることはある.外見が変わっても,「さまざまな外在的変数」をうまく処理して,同一のインタラクションをつくることができれば,作品としては成立することもある.元の作品と同一のインタラクションが提供できない場合は,そのメディアアート作品は「死」を迎えたともいえる.しかし,そうすると「調整中」のメディアアートは「死」んでいる,もしくは「仮死」の状態にあるといえる,「調整中」については,やんツーが「調整中」であっても,そこに造形物としての作品はあるのだから,作品として死なせてはいけないとも主張している.

やんツーの主張は,「メディアアートの可変性」を再度「真正性」のもとに引き戻す点でとても興味深い.「可変性」のなかに「作品が動かない状態」というものも含めると,それもまた作品の一つの状態となる.「作品が動く」と「作品が動かない」とは,作品が持てる可能な状態で対をなすものとして考えてみるとどうだろうか.作品が持てる可能な状態を列挙していき,そのどれかに現時点の作品ははまり込んでいる.前回の記事で書いた1対nの「n」がとることができる状態を可能な限り広げていくことが,メディアアートの保存には求められているのだろう.では,そのとき,メディアアートにおける作品の「死」とはどうなるだろうか.

メディアアートには「死」を対に持たない「生」のみがあると考えてみた.Richard Rinehartは「New Media and Social Memory」で,ピクサーにおける映画の保存について書いている.そこで,ピクサーは「フィルム」ではなく「ファイル」の保存に力を入れているとしている.なぜなら「フィルム」は固定されたものであるのに対して,「ファイル」は可変性を保っているからだとしている.「ファイル」を操作することで,そこから別のヴァージョンの映画をつくることができる.そして,このような別のバージョンをさらに生み出すことができるファイルを「マザー」コピーと呼ぶことを提案している.

So digital media suggest that perhaps the most valuable version of a cultural artifact is not necessarily the most "accurate" but the most fecund, the version capable of reproducing the greatest variety of offspring. With new media, instead of "master" copies we should think of "mother" copies. pp. 23-24

デジタルメディアが示唆するのは,文化遺産の最も価値のあるバージョンは,必ずしも「正確」なものではなく,最も繁殖力のあるバージョン,つまり最も多様な子孫を残すことができるバージョンであるとうことである.新しいメディアでは,「マスター」コピーの代わりに「マザー」コピーを考えるべきである.

マザーコピーからはあたらしい「生」がつくられていき,そこに「死」はない.もちろん作品が完全に壊れてしまうことが「死」だ,やんツーが書いていることも無視はできないけれど,メディアアートは技術的に死に向いやすいと思われているが,実は可変性を重視して,真正性を破壊して「死」を与えれば,作品がマザーコピーとして機能して,そこに作品の死はなくなっていくとも考えられる.


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