154:写真の「向こう側」を考える

デジタル写真のパラドクス───複数の平面の重なり

写真研究者の村上由鶴は「デジタル化以降の現代写真における写真メディウムの可視化」のなかで,写真はデジタル化以前から「操作性」を持つメディウムだと指摘している.

デジタル写真術の普及は写真の操作を可能にしたのではなく,写真が潜在的に持っていた「操作されるものとしての性質」を解放したと言えるのである.pp.81-82

村上由鶴「デジタル化以降の現代写真における写真メディウムの可視化」

そして,村上は「「操作されたこと」を際立たせる」作品として,ルーカス・ブレイロックの作品をあげる.Photoshopのコピースタンプツールや消しゴムツールなどを多用するブレイロックの作品で「操作」が重要な要素になっていることは明確であろう.村上はPhotoshopなどでの「操作」の痕跡を明確に残すアーティストの作品について,次のように書く.

現代に芸術を希求する写真家は,それまでの写真には見られなかった「操作」を創作の中心に位置付け,写真術,写真のプロセスを痕跡として完成したイメージに残すことで,支持体としての写真メディウムを可視化している.p.84

村上由鶴「デジタル化以降の現代写真における写真メディウムの可視化」

確かに,村上の書く通りであろう.ブレイロックの作品にはPhotoshopによる操作の痕跡が多く残っている.しかし,興味深いのは,その痕跡が単に操作されたことを示すだけではなく,操作の結果つくられたイメージが「奇妙な感じ」をつくり出している点ではないだろうか.ブレイロックはPhotoshopと一緒に使うようになったカメラを「アシストカメラ」と呼び,カメラを「描写」のためのマシンと考えている.このように写真を絵画のように何かしらが「描写」されたものと捉えれば操作の痕跡が残っていることは何も問題ないことになる.しかし,ブレイロックの作品に「奇妙な感じ」を見てしまうのは,操作の痕跡が写真が持つとされる対象への「透明性」を崩す異物として機能しているからであろう.世界をキャプチャーしコピーする装置として写真を捉えるか,絵画と並ぶ「描写」の装置として写真を捉えるか.ブレイロックの作品は写真に対する二つの見方が一つの平面に同時に存在しているがゆえに,「奇妙な感じ」を生み出していると考えられる.

アーティストの永田康祐は「Photoshop以降の写真作品───「写真装置」のソフトウェアについて」で,デジタル画像を「自身が生成されたプロセスを把持しない無時間的なメディウム」と定義している.絵画においては,メディウムの物理的な性質ゆえに,筆跡や色の重なりといった「画家の労働の痕跡」が記録されるのに対して,デジタル画像における痕跡は「物理的な操作とは無関係」になっているとして,次のように書く.

私たちは作品の画面上に何らかの操作の痕跡を見ようとするが,そこに表示されているのは,無数の,しかし有限なピクセルの明滅のパターンのうちのひとつにすぎない.物理的なメディウムにおいて保たれていた制作過程を画面へと係留する論理は,デジタルメディアの論理に換骨奪胎されているのである.pp.98-99

永田康祐「Photoshop以降の写真作品───「写真装置」のソフトウェアについて」

村上はデジタル写真における「操作」を重要視し,その痕跡から写真の性質が可視化されるとしたけれど,永田はデジタル写真における「操作」の痕跡は「有限なピクセルの明滅のパターン」でしかない,と主張する.デジタル写真における「操作」の重要性は変わらないが,「痕跡」の捉え方が両者では異なっている.「痕跡」は村上では顕在化し,永田ではピクセルのパターンとなって喪失していく.永田ではなぜ痕跡が喪失するのかといえば,永田は痕跡の「重なり」に注目しているからである.物理的メディウムでは痕跡は時間の流れに沿って上に重なっていくのに対して,デジタル画像では重なりはシミュレートされたもので,ピクセルの明滅の配列で表現されたものでしかない.永田はこのピクセルの配列による重なりを「シミュレートされた重なり」と呼んでいる.

永田と村上における操作の痕跡に対しての見方のちがいを確認した上で,ブレイロックの作品についての永田の考察をみてみたい.

デジタル画像の無時間性によるこうした奥行きの揺れは,ブレイロックの作品にも見ることができる.ブレイロックの作品には,Photoshopのレイヤー機能やクローンスタンプツール,消しゴムツールといった機能が用いられているが,その画面は,こうした機能がどのような順序で用いられたかという歴史を持たない.《Untitled》において重ねられたいくつかの建物のイメージとブラシストロークは,一見する限りは単なるパピエ・コレのようにも見える.しかし,この画面は,かつてのキュビズムの画面とは異なり,完全に前後関係の情報を欠いている.それゆえ,この画面上に見られるブラシストロークは,上に重ねられた画像を消去し,下のレイヤーを露出させるための「消しゴムツール」によるものなのか,それとも「コピースタンプツール」によって別の画像を上書きしたものなのか判別がつかない.それによって私たち鑑賞者の視線は,ルビンの壺のような錯視画像を見せられたときのように,いくつかの可能な奥行きのあいだを振動し続けることになるのだ.p.100

永田康祐「Photoshop以降の写真作品───「写真装置」のソフトウェアについて」

永田も村上の指摘と同様に「操作」の部分に注目しているけれど,その操作がどのような順番で行われていたのかを示す歴史がそこにはないと指摘する.ブレイロックの作品にはPhotoshopでの操作の痕跡が確かに残っており,この「操作」の部分を強調することは,これまでの写真メディウムのあり方を考える点で重要である.同時に,ブレイロックの作品が持つ奇妙さを考えるために,永田が指摘する操作の痕跡はあるが,その歴史は喪失している点も重要である.つまり,デジタル写真は「操作されるものとしての性質」を前面に出すと同時に「機能がどのような順序で用いられたかという歴史を持たない」ことが生じるパラドキシカルな状況を孕んでいるからである.その結果として,ブレイロックの作品は「ルビンの壺」のような印象を見る者に与え,重なりの前後は「前」「後ろ」と分けられるものではなく,どちらであってもいい見方でしかない状態が生まれている.

しかし.通常のデジタル写真は見る者に「ルビンの壺」のようなパラドキシカルな状況が見えない状態で提供されている.写真はできる限り「透明」な存在を目指して操作されるのだが,「透明」にするために行われた操作履歴は喪失して見えないので,結果として,写真はこれまでになく「透明」になれてしまう.しかし,永田やブレイロックは,そこで行われている操作を見える状態で提示して,デジタル写真が操作を促しながら,操作の順番がイメージから見えなくなってしまうというパラドクスを抱えた存在であることを明示してしまう.このパラドクスを生み出しているのは,操作が行われる平面を一つと見なすのか,それとも複数だと見なすのかという見方の違いだと考えられる.「写真」の操作対象の平面を一つだと考えれば,そこには操作された痕跡が絵画における描画の痕跡のように時系列に沿って上に重なって残ることになる.しかし,「写真」を複数の平面の重なりから構成されたものだと考えると,永田の指摘のように痕跡は残るが,その痕跡の重なりの順序を知る手段はなく,痕跡がつけられた前後関係は不確定な状態に置かれて,操作の順番が見方によって変わってしまう状態になってしまう.デジタル写真は複数の平面が操作対象となっているにもかかわらず,最終的には印画紙にプリントされたり,ディスプレイに表示されたりした一つの平面となってしまう.そこで複数の平面が一つの平面にされる際に,複数の平面に対して行われた操作の順番の情報が写真から見えなくなってしまうと考えられる.

ディスプレイの「向こう側」───「奥行き」と「向こう側」が隣り合う平面

デジタル写真のパラドクスをフッサールの像経験の記述を通して画像を分析する田口茂の「受動的経験としての像経験───フッサールから出発し」を経由して考えてみたい.なぜなら,デジタル写真のパラドクスを提示するブレイロックや永田のようにソフトウェアの痕跡を残す作品の「奇妙さ」は,ソフトウェアの操作を経由して,田口が指摘するような像経験の受動的レベルを撹乱するように起こっているからと考えられるからである.

田口はフッサールによる像経験の三つの契機の区分を利用して考察を進める.三つの契機とは,写真における印画紙,コンピュータの液晶画面といった像を現出させる「像物体」,「像物体」を通して見えてくる「像客体」,そして,「像物体」に映っているモデルとなる「像主題」である.これら三つの契機が独立したものではなく,相互浸透しながら像経験をつくると指摘する.例えば,「一人の人物=像主題」が写った「一枚の写真=像物体」を見るとき,私たちはそれが単なる一枚の紙であることを認識しつつも,「一人の人物=像客体」を見ることを止めることはできない.田口はここに像経験の受動性・付随性があると考えている.

その理由は,一方でそこにあるのが単なる平面的物体であることを十分にわきまえつつも,他方でわれわれは,そこにどうしても一人の人物を見ないではいられないからではないか.フッサールも言う.「像客体の現出を脇に押しやって,[写真の]紙片の上に線と陰影だけを見るとうことは,やろうと思ってもまったくできない」(Hua XXIII, 488).写真や写実的な絵画を見るとき,われわれはそこに像を見るかどうかを,自分で自由に選ぶことができない.像客体を見ても見なくてもよいというわけではない.写真がそこにあり,その写真がある程度以上鮮明な写真であったら,われわれはそこに人物を見ないではいられないのである.あるいは,パソコンの画面を適度な距離から眺めながら,そこに映る像を見ないで,液晶画面のみを見るということは,われわれにはできない芸当である.有無を言わさず,われわれは像客体を見てしまう.つまり,この面に関していえば,像経験は,われわれの意志によって能動的に発動される経験ではなく,意志する以前に受動的に生起してしまう経験である.pp.32-33

田口茂「受動的経験としての像経験───フッサールから出発し」

「一枚の紙=像物体」であるであると分かりつつも,そこに「一人の人物=像客体」を見てしまうのかという問いに答えるのは難しいのは,それが「受動的に生起してしまう経験」であり,見る人が能動的にコントロールできるものではないからとされる.さらに,像物体から受動的に生起する「一人の人物=像客体」を見るときに,見る人はそこに実際の人物=像主題がいるとは思わない.ここにも一つの受動的なプロセスが働いているとして,田口は次のように書く.

像経験が受動的に生起する理由は,知覚においても重要な役割を果たしている受動的な立体視の機能が,像物体においても働く点にある.像物体は,知覚においても立体視のために用いられている「単眼奥行き手がかり」を豊富に含む仕方でできあがっている.これが,平面である像物体上に立体感や奥行きが感じられる理由である.しかし,絵画や写真は平面なので,両眼視差による立体感は感じられない.ここにも,ある種の拮抗・抗争がある.そのため,像を実在物と取り違えることはないが,立体感や奥行きの「感じ」が受動的に生起することは止められないのである.p.46

 田口茂「受動的経験としての像経験───フッサールから出発し」

田口の像経験に対する議論は,写真が見る者を平面と立体とのあいだの「拮抗・抗争」に巻き込むことを示している.見る者は,この「拮抗・抗争」から意識的に逃れられないまま写真を見て,受動的に立体感と奥行きの感じを立ち上げ,写真が一枚の紙であるということを抑え込んでいく.それゆえに,写真は一枚の紙という触れられるモノではなく,見るためのイメージという印象が強くなっていき,奥行きを持つ風景のなかに立体感を持った人物を見るようになる.しかし,私はここで田口の議論から抜け落ちている写真に触れているという体験を追加して考えてみたい,多くの場合,私たちは写真を見ているときには写真を持っているので,写真は見ていると同時に写真に触れているという感覚を持っているはずなのだが,写真に「触れる」という触覚的側面は「見る」という視覚的側面に覆い隠されていく.けれど,写真という一枚の平面的な像物体に触れているという体験は,触覚を平面と立体とのあいだの視覚的な「拮抗・抗争」に巻き込んでいるはずである.写真という像物体に巻き込まれた触覚は,写真が一枚の薄い紙であることを写真の表と裏とを挟んでもつ指の感覚から示し続ける.だから,写真を横から見たときに,客体が消え去り像物体としての紙の薄い側面を見ても,写真を見る者は驚きもしないのである.逆に言えば,紙の薄さとその表と裏とを感じる触覚は,一つの平面を正面から見ることと立体的な像客体の立ち上がりという視覚的感覚に対して,弱い立場にあり,抑え込まれているのだろう.だから,写真の裏が問題になることはほとんどないのである.

「平面」と「立体感や奥行きの「感じ」」,視覚と触覚といった二つの要素の「拮抗・抗争」が行われる場としての写真という性質は,ディスプレイに提示された「写真」にも引き継がれている.田口が「パソコンの画面」を例に出すように「平面」と「立体感や奥行きの「感じ」」の「拮抗・抗争」は,ディスプレイで常に起こっている.そして,視覚と触覚の「拮抗・抗争」も写真とは異なる形ではあるが,デジタル写真の「操作」を行うインターフェイスでは常に起こっていることである.コンピュータのインターフェイス,特にグラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)は,「イメージを操作する」こと,つまり,「イメージに触れる」ことが前提になっている.それは,現在のGUIにつながるアイデアを簡潔に表現し,その開発に大きな影響を及ぼしたアラン・ケイが提唱したスローガン「Doing with Images makes Symbols(イメージを操作してシンボルをつくる)」に見てとれる.ヒトとコンピュータとのあいだのインターフェイスは「イメージに触れる」ことが基本となっており,視覚だけはなく触覚を画像に参与させている.GUIは初期からイメージの「操作」を通じて,写真を見る体験とは異なるかたちで触覚を巻き込んだ体験をつくっていた.しかし,ディスプレイ内のウィンドウでデジタル写真を見るときは触覚を巻き込みながらも,そこに側面や裏面を持った一枚の写真のような立体が現れることはない.そこに現れるのはディスプレイの厚みでしかない.GUIを操作するユーザは常にディスプレイ平面を見ることになり,GUI体験に巻き込まれる触覚は,紙にプリントされた写真が示していた像物体とそこに定着したインクとがほぼ一体化した薄い平面ではあっても触れることはできる立体ではなく,ディスプレイの厚みに落とし込まれていく.そして,デジタル写真そのもの厚みは見ることも触れることもできないまま,ディスプレイの厚みのなかで自由に操作できる「シミュレートされた重なり」を生み出す複数の平面を操作するシステムが構築されていったと考えられる.それは,写真の体験から締め出されていた像物体の平面性が,立体への行き場をなくした触覚と合わさり,複数の平面のシミュレートされた重なりという奇妙なかたちでディスプレイ内に現れたと言えるだろう.

次に,複数の平面のシミュレートされた重なりの意味について,郡司ペギオ幸夫の『天然知能』を参照して考えていきたい.郡司は「天然知能」という概念を次のように示している.

本書で論じられるものは,天然知能という新しい概念です.天然知能は,人工知能の対義語として自然に根付いている知性を,意味するものではありません.決して見ることも,聞くこともできず,全く予想できないにもかかわらず,その存在を感じ,出現したら受け止めねばならない,徹底した外部.そういった徹底した外部から何かやってくるものを待ち,その外部となんとか生きる存在,それこそが天然知能なのです.位置No.36/2996

郡司ペギオ幸夫『天然知能』

「天然知能」という「出現したら受け止めねばならない,徹底した外部」に対して,視覚に関する説明をしているのが「「向こう側」の知覚」という節である.『天然知能』の要約と注解を行った哲学者の近藤和敬は「「向こう側の知覚」について,「〔郡司は〕網膜像における両眼視による視差という問題を,視覚以外の感覚(具体的には触覚)を巻き込んだ逸脱する文脈に接続することで「向こう側」感を伴う「奥行」の感覚として説明している」と端的にまとめている.郡司が「天然知能」を経由して論じる「向こう側」と「奥行き」という二つの項と視覚と触覚という二つの項とを交差させる方法が,複数の平面のシミュレートされた重なりの意味を考える上で有効だと考えられる.郡司による「向こう側の知覚」の考察をみていきたい.

 天然知能であるあなたなら,そうではありません.説明しましょう.あなたが見ている風景は無限に広がっているわけではない.山と青空によって隔てられています.両眼視差を利用して理解できる距離感は確かに実在する.しかし遠くの山並みや青空は,遠すぎて両眼視差を利用できません.右目だけで見ても,左目だけで見ても,遠方の風景は変わらないのです.だから,それはただのスクリーン,演劇の舞台で見る背景画のようなものかもしれない.位置No.1138/2996

つまり,両眼視差を利用できない遠方は面のように見なすことが可能で,その限りで,視界はこの面によって区切られていると考えられるのです.視界の向こう側,山の向こう側はどうなっているのか,それは両眼視差を利用した距離感からは決してわからないのです.位置No.1142/2996

わたしは,この見えない向こう側に対する,決してうかがい知れない外部性を「向こう側感」と呼びたいと思います.「向こう側感」を感じない限り,見ている風景は,それ自体で区切られ,その外側は虚無となります.視界のその先にまだ「何か」あるだろうという確信が,「向こう側感」なのです.位置No.1145/2996 

ただし,「向こう側」にこちら側と同様の世界が続くだろうという感覚は「向こう側感」とは違います.同様に続くという感覚を「奥行き感」と呼ぶことにします.平凡な我々は「向こう側」もこちら側と同様に続くだろうことを経験的に知っています.しかし経験的知識は論理的真理ではありません.次の瞬間に変わるかもしれない.いわば平凡な我々は「向こう側」を「奥行き」によって隠蔽しているわけですが,重要なことは向こう側に対する直観です.位置No.1148/2996 

郡司ペギオ幸夫『天然知能』

郡司は両眼視差が機能しない遠方の風景が「面」となっていることから「向こう側」を導く.写真やコンピュータのディスプレイという平面は手元にある「面」として,これもまた両眼視差が機能しない面として,「向こう側」を提供する平面となっている.しかし,通常,受動的に生起する「奥行き」によって「向こう側」が隠蔽されているように見えるのは,ウィンドウ内の画像を主に見ているからである.ウィンドウなどのインターフェイスの要素を見るとき,そこは複数の平面が幾重にも重なった状態になっており,複数の平面で構成された「奥行き」や「向こう側」が混じり合った場が広がっている.デザイナーの戸田ツトムは,GUIの平面について,次のよう書いている.

コンピュータはひとつのディスプレイ上に,概念的な平面とゴミ箱が置かれた街角のような空間を同時に混在させる.空間性不要のウィンドウでもスクロールツールによって全体の平面内をなぜか文字列がパンする.同様に「平面」上でウィンドウが重なり,後ろに回り,別ウィンドウの上を通過したり….平面に存在し得ない状況の様々である.「絶対の平面・空間に置かれた平面・深さと線遠近法的な性格をある程度もった平面」,これら言わば乱層するデスクトップを,ユーザーはそれほどのストレスや戸惑いを感じることなく受容し得た.これは驚くべきことではなかった? p.20-21

戸田ツトム『電子思考へ……』

戸田が驚きとともに体験する「乱層するデスクトップ」が混乱なく受け入られた要因の一つは,そこにこちらとは異なる論理が認められたからであろう.そして,そこで重要な役割を果たしたのが触覚だと考えられるのである.戸田はGUIを「二次元という概念では捉え得ない,新しい視覚環境「平面」の登場だった」と書いているが,GUIは視覚環境であるともに,マウスとキーボードを通して操作する触覚環境でもあったと考えたほうがいいだろう.GUIは視覚と触覚とが重なり合う平面なのである.「新しい視覚環境「平面」」と想定されていた平面は操作のために触覚の参与を認めるのである.郡司は視覚とその他の感覚との交差について次のように書く.

視覚的な感覚を想定しながらも,そこに触覚や聴覚が不用意に知覚に参与し,距離感に関して違和感を醸し出す.この時,視覚だけでは決してもたらされない視界の外部が,知覚に参与し,無限定な「向こう側」をもたらす.そういうことなのです.位置No.1163/2996

郡司ペギオ幸夫『天然知能』

GUIは視覚に不用意に触覚が参与することで,私たちに「向こう側」をもたらすものであったと言える.GUIはイメージに対する「操作」を導入して,視覚と触覚とが隣り合う場として機能しており,あたらしい視覚と触覚とのバランスをつくりだしている.その結果,「奥行き」と「向こう側」とを同時に意識させる平面が生まれている.GUIでは,複数のウィンドウが「奥行き」がないような空間でいくらでも重なっていくのを見るのだが,そこには実際には触れることができる重なりがあるわけではなく,単に「影」の描写でつくられた「シミュレートされた重なり」があるだけである.「シミュレートされた重なり」は視覚としては重なっているが,触覚としては重なっていない.なぜなら,ディスプレイ上の操作は,XY座標の平面に還元される体験だからである.同時に,ディスプレイというXY座標平面は,立体的な物理世界というこちら側と地続きあることを装うように「奥行き」を示すユーザ体験をつくりだしている.画像加工はもちろんのこと,3Dを扱うアプリケーションもそこで起こる出来事がすべて平面のXY座標で起きていることを可能な限りユーザに感じさせないようにデザインされている.GUIでは視覚と触覚とが一致することがないまま相互浸透を起こしながら「向こう側」を示すと同時に,そこには「奥行き」が存在している.そして,ユーザはこれらの二つのリアリティのあいだを行き来し,あらたな体験に巻き込まれ続けている.私たちはGUIの「操作」をしながら,物理世界とは異なるかたちで視覚と触覚とを相互作用させながら.「徹底した外部」を感じ続けているのである.

ここでGUI体験の考察を経由して改めて,永田やブレイロックといったPhotoshopなどの画像編集ソフトウェアをツールとして当たり前に使用する作家が制作する「シミュレートされた重なり」を操作不可能な一枚の写真に接着した作品が見る者に与える「奇妙な感覚」を考えたい.それらの作品が示すピクセルのパターンは「痕跡」のように見えることで,作品を見る人に「何かしらの操作が行われたのではないだろうか」という「問い」を抱かせてしまう.見る人はその「問い」に抗うことができないまま,作品のなかに「操作の順番」を見出そうとする.しかし,作品には触覚と密接に結びついた「操作の順番」を見出すことはできないので,「問い」とともに生じた「操作の順番」は行き場をなくし,作品を見る者のなかに触れる対象がない「奇妙な触覚」として残り続ける.この「奇妙な触覚」が,ソフトウェアの操作を介して制作された永田やブレイロックの作品が示す「奇妙な感覚」の正体であり,それは「奥行き」と「向こう側」という異なるリアリティが一つの平面に隣り合って像客体として立ち上がってくることから生まれている.ユーザに蓄積されているGUIを経由した視覚と触覚とがあらたな比率で交じり合い「徹底した外部」を感じさせる「向こう側」と私たちに馴染み深い「奥行き」という二つのリアリティとが,一つの平面で「拮抗・抗争」を起こしながら像客体を立ち上げるプロセスに鑑賞者を巻き込み,受動的なレベルで作品を体験する人に揺さぶりをかけるのである.

写真の「向こう側」───そこになかった「黒い線」を見る

最後に考えたいのは,ディスプレイの外側に現れる「向こう側」である.それは,「シミュレートされた重なり」が起こりえない写真というモノの「操作」から「向こう側」を考えることである.ディスプレイと向き合いながらイメージを操作をしている際に蓄積された視覚と触覚とのあらたな混じり合いの際に感じる「向こう側」を介して,モノとイメージとが隣り合って処理される可能性が生まれたのではないだろうか.モノとイメージとの境界が曖昧になったということではなく,モノとイメージとが隣り合って,同等な存在として扱えるようになっていて,そこに「向こう側」が現れるのではないだろうか.光が波であり,粒子であるように,写真もモノであり,イメージであるという関係が「向こう側」とともに写真に招き入れられたと考えられる.視覚と触覚とが隣り合うあらたな感覚をソフトウェアによるイメージの操作ではなく,写真というモノの操作でつくりだした作品の考察を行いたい.

池田衆の個展「Object and Image」で展示された作品は「写真を切ることで,絵画/写真,物質/イメージ,表面/内面,などの要素を顕在化し,対立する相互を共存させるような画面を再構成」したものである.さらに池田は「大量の加工された写真がスクロールされる現代において,錯覚しているイメージや希薄になった物質性やリアリティーを立ち止まって意識することで,改めて"みる"ことの驚きや面白さを感じられるのではないかと思っています」と意図を述べている.池田が書くように彼の作品は「切る」という行為を通して,写真の「イメージ」の部分と「モノ」の部分とが一つの平面に同居している感じがある.《Pomegranates #1》では特に,果物のバックの黒い部分と白い部分の境界が突如「黒い線」になっている.つまり,「境界線」という実際にはない「線」が,「黒い線」という「モノ」として写真の「イメージ」から切り出されている.切り抜かれる前までは「奥行き」を示す「境界線」が,切り抜かれた直後にこちら側と向こう側とを分ける「黒い線」となり,モノとして影を持って存在するようになる.

ここで,イメージであるものが突如モノになるということを考えるために,田口のテキストを引用したい.

像客体が示す特有の捉えがたさは,おそらくそれが媒介現象であることに起因している.これに対し,像物体としてのキャンバスや絵の具や印画紙を,独立した対象として経験することは容易である.像主題としての人物や事物も,独立した対象として考えられる.像客体だけが,独立した対象として捉えることが難しい.しかし,像物体がある仕方で形成されると,そこにはっきりと「何か」が浮かび上がる.それが浮かび上がったときには,像主題もはっきりと意識される.キャンバスに塗りつけられた絵の具が,ある構成をとると,そこに赤い果実の像が浮かび上がる.それが浮かび上がったとき,赤い果実という実物も,主題として意識されている.しかし,赤い果実が本当にそこにあるわけではない.そこに見えているのは,赤い果実の「像」である.このように,像物体からも,像主題からも区別されるが,像物体や像主題無しには現出しない媒介的な交差現象が,「像客体」である.pp.27-28

田口茂「受動的経験としての像経験───フッサールから出発し」

「奥行き」のなかで黒と白との境界線を見るというのは,黒と白という色の境界という「像客体」を経由して「像主題」を見ることになるだろう.もちろん,これらはプリント用紙という「像物体」を経由している.写真が切り抜かれた瞬間,それまでは写真に存在していなかった「黒い線」という「像物体」というモノが前面に出てくるが,それでもそこには「黒い線」という「像客体」があり「像主題」を見ているようにかじられる.いや,それは単に「黒い線」というモノを見ているだけかもしれない.そして,それを「黒い線」だと認識すると,それはモノとしての存在を主張しだして,「黒い線」の切り抜かれていない部分,つまり,境界線の部分をもう一度見ると,そこには「モノ」としての「黒い線」と「イメージ」の「境界線」とが分かち難く存在するように見えてくる.実際に,これらは「像物体」「像客体」「像主題」として同時に存在して像経験をつくりだしているので,写真を見るときにいつも体験していることに過ぎない.けれど,一度,「像物体」「像客体」「像主題」でもなく,それらが相互浸透していくなかで生じる「媒介的な交差現象」を切った地点に現れているような「黒い線」を見ると,「境界線」に「黒い線」を見てしまい,「黒い線」に「境界線」を見てしまうような状態に見る者は置かれるのである.このとき《Pomegranates #1》は写真という一つの平面ではなくなり,写真とその奥に影を落としている壁というもう一つの平面との重なりのなかに存在するようになり,写真そのものは裏面を持つ存在になっている.

ここで,生物学者であり,バイオアートと切り絵を組み合わせた作品を多く発表するアーティストでもある岩崎秀雄が「切り絵」について述べていることから,「像物体」を「切る」ということを考えてみたい.

木版画と切り絵の違いって何かと言うと,一つは,切り絵は三次元性を持っていることです.持ち上げるとたわんだり曲がったりするし,重ね合わせることもできる.また,向こう側が透けて見えるとか,光を当てれば影ができて,それを影絵として利用したりもできます.位置No.2291/3055
(中略)
それから,やっぱり何だかんだ言ってすごく壊れやすいという要素があります.あと基本的につくるときには,ずっと紙に触れているので,視覚芸術である以上に触覚芸術なんです.そのへんは木版画とは全然違う世界なので,そこを取りださないといけない.位置No.2297/3055

藤崎慎吾『我々は生命を創れるのか───合成生物学が生みだしつつあるもの』

岩崎が切るのは自らの論文であることが多いが,池田が切り抜くのは写真である.写真を切るということを岩崎の言葉から考えると「像客体」を媒介する「像物体」としての写真は,切られているときには「像物体」として触覚的存在となる.もちろんそのときに「像客体」は媒介されて現れてもいるけれど,それでも切る行為を継続しながら,触覚が視覚よりも強い状態に置かれることになると考えられる.その結果として,写真は二次元的ものでありつつも,文字通り「向こう側」を透かし見せて,三次元的なものとなる.写真から切り絵へという移行するときに生じる二次元から三次元への移行を表しているのが「境界線」から「黒い線」への移行であろう.このような状態は「見る」という視覚的な部分に,「切る」という触覚的な操作が入り込んできたために,「奥行き」を構成する視覚と触覚とのバランスが崩れた結果として起こっていると考えられる.「切る」という操作が写真という像物体に対して行われ,その履歴が切り抜かれた箇所と残る箇所として同時に保持される.切り抜かれた空白部分と残った部分とのパターンが,あらたな像物体を形成する.このとき像物体は「像」であることをやめて単なるモノになる場合もあれば,像物体として像客体を示し続けている場合もある.そして,このモノであり像客体であることが同時に示されるとき,「奥行き」を示す境界線がモノ=像物体としてあるという通常の状態を超えて,何か得体の知れない存在が境界線から先の黒い部分にあるのではないかと感じさせる「向こう側」が生まれているのである.同一平面に二つの異なるリアリティが共在し,重なり合い,見る者の意識は二つのあいだを揺れ動くことになる.「奥行き」と「向こう側」は確固とした存在ではなく,「ルビンの壺」のよう常に入れ替わるプロセスの二つの項として現れるのである.

インターフェイスのデバイスとしてのディスプレイに表示される画像は「奥行き」を見る者に受動的に生起させつつ,それらは操作され重なり合って,常に「向こう側」を意識させるものになっている.ウィンドウの重なりの入れ替えが一番直観的ではあるが,Photoshopにおけるレイヤーの操作も「向こう側」を感じさせる一つの要素であろう.これらは,OSやソフトウェアの一つの機能に収まることなく,「写真」という平面と立体とが「拮抗・抗争」する場に「奥行き」とは異なる「向こう側」という別のリアリティを持ち込むのである.平面全域に「奥行き」を見るのではなく,「向こう側」をつくる複数の重ね合わされた平面のあいだに「奥行き」が現れるようになる.そして,ポストインターネットの作品は,写真が否応なく感じさせる立体感を妨げながら,写真が平面の像物体であることを,写真の体験者に訴えてくるのである.デジタル写真は受動的に「奥行き」を生起させる場でありつつも,「奥行き」の生起を阻害する外部を招き入れる「向こう側」をつくる平面にもなっている.現在,このディスプレイという平面の体験が写真に跳ね返ってきていることを,池田の作品は示している.私たちは写真が平面の像物体であることを忘れてはならない.《Pomegranates #1》は,写真を「切る」という行為がモノとイメージとを隣り合わせて,視覚と触覚とが隣り合う場を形成していることを「黒い線」という異物を出現させることで示し,「奥行き」と「向こう側」を隣り合わせて,別々のリアリティを一つの像物体のなかに共在させている.デジタルを経由した写真は,GUIやタッチ型インターフェイスとよるソフトウェア的操作によって生まれた視覚と触覚とが隣り合う場をモノとしても持つようになっており,それが作品を体験する人に写真の「向こう側」への直観を与えてくれる.「向こう側」は写真という像物体はモノとイメージとが重なり合い,それらが相互浸透しているという単純な事実を改めて示しつつ,モノとイメージとが入れ替わり続けるプロセスの二つの項になるということをあらたに示すのである.

参考文献・URL
村上由鶴「デジタル化以降の現代写真における写真メディウムの可視化」,第68回美学会全国大会若手研究者フォーラム発表報集

Lucas Blalock, ‘Drawing Machine’, foam, issue 38, 2014

永田康祐「Photoshop以降の写真作品───「写真装置」のソフトウェアについて」,『インスタグラムと現代視覚文化論 レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって』.BNN新社,2018年

田口茂「受動的経験としての像経験───フッサールから出発し」,小熊正久・清塚邦彦編著『画像と知覚の哲学―現象学と分析哲学からの接近』,東信堂,2015年

郡司ペギオ幸夫『天然知能』,講談社,2019年,Kindle版

戸田ツトム『電子思考へ……───デジタルデザイン、迷想の机上』,日本経済新聞社,2001年

藤崎慎吾『我々は生命を創れるのか───合成生物学が生みだしつつあるもの』.講談社,2019年,Kindle版

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💬この発表をもとに「紀要論文「「シミュレートされた重なり」という奇妙な像客体」 という紀要論文を書きました.







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