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118:写真はモノであり,イメージであるという関係

前回のnoteで写真を考えた果てに,理論物理学の話に行ってしまったので,この流れでデジタル写真を考えているダニエル・ルービンシュタインの論考「The Grin of Shrodinger's Cat」を読んでみた.そして,読んでいるときに,このテキストを日本語で読んだことがあると思い,アーギュメンツ3に収録された増田展大の「オブジェクトと写真───ポスト・インターネット再考」を読み返してみると,そこにはルービンシュタイのテキストが日本語に訳されて,引用されていた.

ルービンシュタインは「量子論に着想を得た写真理解」をしていくのだが,増田が注目するのは「量子論」ではなく,「量子論に着想を得た写真理解」を可能にする「アルゴリズム」である.

こうしてルービンシュタインらが声高に主張するのは,写真の「本性」とされてきたインデックス性や同一性,再現=表象を乗り越えて,それらを計算処理の手続きである「アルゴリズム的なもの」へと置き換えることの必要性である.p.83
増田展大「オブジェクトと写真───ポスト・インターネット再考」

アルゴリズムによって写真の「同一性」が失われ,様々なものに外見を変えていくがゆえに「量子論に着想を得た写真理解」が可能になる.

しかしながら,ルービンシュタインの議論にも留保が必要である.そもそもデジタル写真の原理的な側面として,計算機であれ量子論であれ,自然科学や物理科学の知見を引用する点はある程度まで興味深いものの,そうした議論はデジタル写真を「撮ること」や「見ること」をめぐる問題を捨象することによって成立している.もちろん,顔や自動車の認証システムをはじめとして,人間の手を離れた写真やカメラがセンサーとして機能する場面は増加しつつあり,それらが撮影や閲覧よりも機械やネットワークに対して調整されている以上,これは今後の写真論が進むべき道筋のひとつではある.それでも先の引用箇所に限っていえば,彼の論立てが「アルゴリズム決定論」とさえ言えそうな傾向を帯びるのは,写真というイメージが「非」物質的な情報として理解されていることの現れであるとも言える.実際,このようなアルゴリズムを中心化する議論は少なくないが,それらは「インデックス性」のような従来のメディウム固有性に代わるものをいささか早急に希求した結果でしかないようにも感じられるのである.p.83
増田展大「オブジェクトと写真───ポスト・インターネット再考」

増田はルービンシュタインらの「アルゴリズム的写真論」を批判する.確かに,増田の批判は真っ当だと考えらえる.写真は「「非」物質的な情報」ではなく,見られ,手で触れられるモノに出力される必要があるからだ.

しかし,ここでさらに考えてみたいのは,「モノ↔️アルゴリズム↔️イメージ」というアルゴリズムを介して,モノとイメージとが隣り合って処理されるか可能性が生まれたということである.ルービンシュタインを経由して,増田はモノとイメージの位置付けが「歴史的かつ技術的に根底から変動したこと」を指摘する.それは,モノとイメージとの境界が曖昧になったということではなく,モノとイメージとが隣り合って,同等な存在として扱えるようになったということだと考えられる.光が波であり,粒子であるように,写真もモノであり,イメージであるという関係が,アルゴリズムによってつくられているのだろう.「アルゴリズム」ではなく,「写真はモノであり,イメージであるという関係」が先にできていて,その後でモノとイメージとが存在していると考えてみるといいのではないだろうか.

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