052:『あるようにあり,なるようになる』からサーフェイスを透かし見る👓👀🤳

入不二基義さんの『あるようにあり,なるようになる』を読みながら,MASSAGEで連載している「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」について考えつつ,エキソニモの作品におけるランダム性についても考えたメモ.

ただし,付け加えておこう.「空虚すなわち充実」というあり方は,その内に自ら入り込むことによってしか感得されないし,「神秘」にはならない.現にこの私こそ「私は私であり」,現にこの現実こそ「あるようにあり,なるようになる」.「現にこの」が,「その内に自ら入り込む」ことを示している.そのように,実際に巻き込まれることによってしか,「空虚すなわち充実」の不思議さや不気味さは迫って来ないだろう.位置No.406/5706

​​無味無臭で巻き込まれるということはありえないとすれば,「巻き込まれる」ときに生まれるマーブル模様ものはサーフェイスでもあり,バルクとなるのではないだろうか.サーフェイス上の出来事がバルクとつながる? バルク=厚みと同時にサーフェイスが生まれる.「現にこの」という巻き込まれるときに,バルクが生まれ,そこに同時にサーフェイスが生まれる.​​「その内に入り込む」ということは,陥入に起こるということはバルクが前提されているとともに,外だったものが内になる.いや外ではないのか.内と外ではなくて,全体としての「バルク」とサーフェイスで考えるといいのだろう.

解釈的運命論と因果的決定論を分けているポイントは,「運命」と呼ばれているものを,人間固有の解釈現象と見なすか,人間を超える自然現象と見なすかである.言い換えると,「運命」を,人間(ことば)が創り出す主体的・主観的なあり方とするか,客観的な自然(因果法則)の決定性とするかの違いである.前者が「運命」を人間化することによって,その「神秘」性を奪うのに対して,後者は「運命」を自然化することによって,その「神秘」性を奪おうとする.位置No.467/5706

「解釈的運命論」に基づく「人間化するアート」と「因果的決定論」に基づく「自然化するアート」があったとして,その中間というか,第三項して「論理的運命論」に基づくるプログラムを介したアートが出てきたと考えみたらどうだろうか.

逆に,解釈的運命論と因果的決定論には,共通点がある.それは,「複数の出来事のあいだの連鎖」を考えるという共通点である.「運命」とは,人間が与える解釈・物語であると考える前者は,複数の出来事を「ストーリー」で繋ごうとする.たとえば,「自分のなした悪事」と「石落下による怪我」という二つの出来事を「戒めや罰」というストーリーで繋げる.また,因果的決定論も,或る出来事(=原因)と別の出来事(=結果)を因果法則によって繋ごうとする.どちらも,複数の出来事の間で成立する関係性(繋がり)のところに,「運命」(あるいはその実態としての因果的決定)を見出そうとする点で,共通している.位置No.475/5706​​

ヒトが制作するときに必ず入り込んでしまうものが「複数の出来事の間で成立する関係性」である.そのために制作のときにも「現にこの」ということが起こり,その連鎖が作品を構成する.そのとき,作品のバルクとサーフェイスで起こる出来事の連鎖は,作品の解釈とも連動している? 連鎖を断ち切るためには「ランダム=論理的運命論」と制作に取り入れる必要がある.

まず,論理的運命論の「証明」には「人間による解釈・意味付与・物語化」は,いっさい登場しない.むしろ,出来事の「解釈」とは無縁であり,出来事の「内容」に依存しない形式的な議論になっている.任意の出来事について,論理を適用しているだけなので,人間くさい解釈が介入する余地はまったくない.この「証明」(の簡易版)に登場する「変更不可能性」や「必然性」の厳しさは,むしろ非-人間的であり,超-人間的でさえある.これが,解釈的運命論との違いである. 位置No.494/5706

​​非-人間的というは初期のエキソニモに通じるところがある.その理由の一つとして「解釈的運命論」との決別としての「ランダム」があったのかもしれない.「人間くさい解釈が介入する余地はまったくない」という部分が重要な気がする.

次に,論理的運命論の「証明」には「原因と結果」や「自然法則」は,いっさい登場しない.論理法則のみが使われる.「ある出来事が原因となって,別の出来事を結果として引き起こす」という因果の繋がりではなくて,ある任意の一つの出来事を取りあげて,それが起こるか起こらないかのみを考えている.つまり,(因果連鎖のような)複数項の関係は必要ない. 位置No.498/5706

​​サーフェイスでは連続して起こっているように見えていたとしても,バルクではそれらは別個で起こっている出来事である.別個の出来事がサーフェイスという特殊な層において変質し,解釈を許容するものとなる.

論理的運命論は,解釈的運命論と因果的決定論の両者が共有する点を,共有していない.すなわち,「複数の出来事のあいだの連鎖」など考えない.むしろ,ただ一つの出来事にのみ着目し,「論理」によって,一挙に運命論の結論(あらゆる出来事の必然性)を導こうとするのが,論理的運命論の特徴である.位置No.505/5706

​​「ただ一つの出来事にのみ」に着目すること「ランダム」との関係性を考える必要がある.複数の出来事が起こっているが,それぞれには何の連鎖もない.そして,ランダムが「破壊」することと結びつくこと.ここでは,「解釈」が断ち切れることによって「破壊」が導かれているのかもしれない.しかし,その「破壊」もまた「破壊」という「解釈」に入り込み,破壊行為そのものを阻害するために,意図的に「解釈」を入れることで,つまり,バルクではなくサーフェイスでの操作を加えて,「破壊」が「破壊」であることを成立させる.「破壊」はヒトとは無関係に起きないからこそ,「破壊」がうまく機能するにはヒトの関与が必要とされる.

しかし,そこに含まれているのは,いわゆる「論理」だけではない.「現実化(実際に起こる)」や「現実の変更不可能性」や「現実の必然性」等も含まれている.論理的運命論の「論理」は,いわゆる「論理」を超えて「現実」にまで触手を伸ばしており,現実へと巻き込まれる(或いは現実を巻き込んでいる).ここに,あの「巻き込まれること」が働いている. 位置No.516/5706

​​バルクが現実に巻き込まれるときにサーフェイスが生まれているのかもしれない.「内へ巻き込む」のはサーフェイスではなく,現実であって,その結果,バルクにサーフェイスが生まれているのかもしれない.けれど,バルクは現にここにあるものしかないので,常にサーフェイスとセットのように見えてしまう.この繋がりを「プログラム」は解除しているのではないだろうか.現実に巻き込まれる前のバルクとして,そこにあることを可能にするプログラム?

排中律を介して透かし見える,この「全一的で潜在的でもある全体」とは,「現実」のことである.というのも,現実こそ,その外部が原理的にありえない「それが全てでそれしかない」ものであり,現実こそ,ありありと現れているもの(現前するもの)だけではなく,現に働いているが露わにならない潜在的なものまで含む全体だからである. 位置No.615/5706

​​「透かし見える」とはどのような状態なのであろうか.見えているけれど,明確には見えない.「透かし見える」とき,そこには「透かし」が起こるサーフェイスがあり,その裏・奥=バルクがあり,バルクに何かを見ている.あるいはサーフェイスの肌理とバルクとの構成とが重なり合ってはじめて何かが透かし見えることもあるだろう.エキソニモだけではなく,作品が「透かし」として存在する.しかし,エキソニモは作品が論理=プログラムの「透かし」であることに意識的であるように思われる.「プログラム」をそのまま現実に持ってくるのではなく,「透かし見える」状態をつくり,「透かし」として作品を提示すること.作品から透かし見えるのはランダム性であったり,HTMLの構造であったり,インターネットの不安定さであったりする.解釈の連鎖を透かし見るのではなく,解釈を断ち切った論理的なランダム=個別の出来事を透かし見ること.

もちろん,二つ用意される現実など,ほんとうの現実ではない.二つの「現実」とは,「もしも〈雨が降っている〉が現実だとしたら」「もしも〈雨が降っていない〉が現実だとしたら」のように,条件節(「もしも……としたら」)の内側に閉じ込められた擬似的な現実である.一方,ほんとうの現実は,条件節内には収まらない.「もしも……としたら」が実際に現実になる,という具合に条件節の外側で働くのが,ほんとうの現実である.逆に言えば,排中律は,外側にほんとうの現実を自らの内に取り込もうとしながらも,それを擬似的な(条件節内の)二つの現実に変えてしまう. 位置No.638/5706

​​作品は擬似的な現実にはなり得ない.作品は常に現実である.「もしも」をつけることができないのが作品.バルクでは「もしも」はあるが,それは現実と巻き込まれたときに取れてしまう.ゆえに,サーフェイスには「もしも」はない.バルクには「もしも」という単独の出来事がある?

単に「条件節内の二つの現実を設定する」だけならば,「二つの可能性(選択肢)」を用意したにすぎない.しかし,排中律はもう一歩先まで語る.二つの擬似的な現実のうち,ほんとうの現実になるのは一つだけなのである.「雨が降っている」が現実ならば,その現実からは「雨が降っていない」現実は完璧に閉め出される.排中律は,「条件節内の二つの現実」を設定した上で,さらにその一つだけがほんとうの現実であることまで語る.擬似的な現実から,ほんとうの現実へもう一歩だけ接近する.他方を完璧に閉め出して「一つだけ」になることは,「それが全てでそれしかない」ことへの接近である.そのような仕方で,「唯一的な現実」は,「全一的な現実」への通路になっている. 位置No.644/5706

​​サーフェイスは「他方を完璧に閉め出す」.バルクすらも閉め出すのかもしれない.「他方を完璧に締め出した」サーフェイスが向かい合って,インターフェイスが生まれるとすると,そこに起こるのはコミュニケーションと言えるのだろうか? このように考えると《I randomly love you / hate you》は「運命論的」作品である.

こうして,排中律は「二つ」と「唯一」を介して「全一」を指し示す.論理と現実との対立は,論理の内での「二つ/一つだけ」という拮抗として現れるだけでなく,その論理内の拮抗自体が,論理外の「一つだけ」とさらに拮抗する仕方で現れる.論理と現実の対立は,そのような複層的な二項対立として,何度でも繰り返し現れ続ける.位置No.654/5706

​​《I randomly love you / hate you》を考察するときに必要となるテキストだと思う.​​《I randomly love you / hate you》がなぜ二つのディスプレイなのか=「二つ」,それぞれが「唯一」のコミュニケーションをしている.ディスプレイも「唯一」であり,吹き出しも「唯一」であり,ランダムである.これらを介して,「全一」の論理と現実とが対立する場=作品が現れてくる.

同じことを,角度を変えて言えばこうなる.現実の「唯一性」の内には,論理が開く「二つ性(肯定と否定の可能性)」と,論理を超える現実の「全一性」の両者が,相反しつつ同居している.すなわち,「どちらか一つだけ」(唯一性)は,「二つがありうること」(二つ性)と,「二つがありえないこと(全一性)とのあいだの拮抗として現われている.さらに言い換えれば,「それが全てでそれしかない」現実を,「二つ性」の枠(論理)の中で表現しようとすると,「どちらか一つだけ」という唯一性が出現する.位置No.663/5706

​​「それが全てでそれしかない」現実を,「二つ性」の枠(論理)の中で表現しようとすると,「どちらか一つだけ」という唯一性が出現する>現実こそがバルクであって,ということを考えようとしたが,現実は「バルク」とは言えないもっと大きなものだろう.バルクとしての論理が現実を巻き込むときに空白となって,サーフェイスをつくりだす.あるいは,バルクからはみ出る空白がサーフェイスなのかもしれない.

にもかかわらず,表現(排中律)は「空白」を招き寄せる.現実には「空白」など無いことを伝えようとする「現実はどちらか一方によって必ず埋まっている」という表現が,むしろ逆に,ニュートラルな場としての「空白」の想定を含む.「どちらか一方」とは,「どちらでもいい」ということであり,「どちらでもいい」ということは,「どちらにも確定していない」ということである.こうして,「どちらによっても埋まっていない」場,棚上げ用の仮想的な場が浮かび上がる.排中律は,空白なき現実を示すために空白を利用しているのであり,現実と仮想(棚上げ)との中間で働いている. 位置No.710/5706

​​《I randomly love you / hate you》はふたつのディスプレイを使って,ひとつの「棚上げ用の仮想的な場」をつくっているのではないだろうか.エキソニモ作品をプログラムの透かしのサーフェイスとして考えると,それは「棚上げ用の仮想的な場」,「どちら(ヒトの解釈/因果的決定論)によっても埋まっていない」場となっているのではないだろうか.現実を巻き込んだバルクから立ち上がりつつも,仮想の場としてどちらにも属さない場をつくる.しかし.そのサーフェイス自体が仮想でありながら「厚み」を持つようになる? 「どちらでもない場」を透かし見せるのがサーフェイスであり,その奥にそれを可能にするバルクがある.バルクは出来事の連鎖の「空白」であり,独自の厚みがある.そして,その厚みに現実が巻き込まれ,こちら側にはみ出てきたのがサーフェイスである.

このように「空白」の方が,「欠如」よりも,いっそう現実寄りである(かといって現実そのものには属さない).このことによって,二種類の無のあいだに「厚み」が発生している.つまり,「空白」は「欠如」のさらに〈奥〉あるいは〈裏〉に控えている無である.
「欠如」と「空白」のあいだの「厚み」に加えて,「空白」は,独自の「厚み」も発生させる.それは,「空白」の非存在(現実には空白は存在しないこと)をめぐって生じる.位置No.748/5706

​​バルクとサーフェイスとの関係から考えるべき問題.「厚み」が発生しすることは〈奥〉と〈裏〉の発生と不即不離の関係にある.「厚み」が発生するものだとすると,元々あるのは「厚み」のない存在=サーフェイスなのか?

空白についての「思考」は,どちら側から見てもあっち側へとはみ出すという独特な〈中間〉性を帯びている.この〈中間〉性は,「欠如」が私たちの観点や水準に応じて主観的でもあり客観的でもあるという相対性(変動幅)とは違う.むしろ,その「思考」のポジションは,絶対的に中間的である.この〈中間〉性が,「空白の非存在」をめぐる独自の「厚み」を発生させている.位置No.782/5706

​​モノとディスプレイとの重なりで考えた「厚み」なのかもしれない.ピクセルの厚みでもなく,ディスプレイの厚みでもなく,たんにそこにある厚み.それは「空白の非存在」をめぐる独自の「厚み」だったのかもしれない.だとすれば,ディスプレイをめぐる「空白」とはなんなのだろうか? ディスプレイ自体が「空白」となりうること.電源オフのディスプレイ.ここまで考えてくると,マクルーハンの電気をめぐる2つもののあいだという「空白」が独自の厚みを持っていると考える必要があるのではないだろうか.

電気の知識を獲得して以来,われわれはもう原子を物質として語ることはできなくなった.このことは大多数の科学者がはっきりと認識していることである.さらに,電気の放電やエネルギーに関する知識が増すにつれて,電気を水のように電線の中を「流れる」ものだとか,バッテリーの中に「含まれる」ものだとか考える傾向も減ってきている.むしろ,全般的に,電気は画家にとっての空間のようなものだとみなす傾向になる.すなわち,電気は,2ないしそれ以上の物体の特殊な位置関係を包含する可変的条件,とみなすのである.もはや,電気が何かに「含まれる」とする見方はない.画家たちは,かなり以前から,対象物は空間の中に含まれるものではなくて,みずからの空間を生み出すものであることを知っていた.164−165頁


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